罪について・・覚醒剤の所持と使用というニュース
覚醒剤の所持と使用という罪を犯した芸能人のことが連日のようにマスコミをさわがしています。
涙の会見もありました。
彼ら彼女らは、法律に反したから罰せられると思っているのでしょうか。
それとも、人間倫理に、人間としてのあり方に反したと思っているのでしょうか。
人間として手にしてはならないものに手を出してしまったと思っているのでしょうか。
しかし、法律がなければ、罪は罪として認められないのも事実です。
かと言って、法律がないからと言って、罪ではないとは言えないのです。
ですから、決して、法律は人を生かすものではないということになります。
法律がなければ、人間は人間としての道を踏み外してしまうのでしょうか。
救いは、法律に従うことによって得られるのでしょうか。
「 私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行なっているからです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・7章15節・新改訳聖書)
覚醒剤を使用したり、用いることを前提に所持していることは、
人間の生に反することです。
法律により禁じられているからではなく、
それは人間として罪なのです。
それが罪だと知っていながら、
その中で生きようとするなら・・・・。
それは、つまり、罪に支配されているわけです。
キリスト教では、” 罪の奴隷 ” と言います。
その罪の支配から抜け出すにはどうすればいいのか・・・・。
罪から解き放された新しい歩みをするにはどうすればいいのか・・・。
「 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章4節・新共同訳聖書)
イエス・キリストは、私たち人間を罪の奴隷から解放するために、
あえて十字架刑により死なれたのです。
「 死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章7〜8節・新共同訳聖書)
これこそキリスト教信仰の、
そのものでなくては味わえない基本的な考えなのです。
私たちは生きている間は罪の中にいます。
しかし、現実に生きていても、
もういちど死んで葬られて復活したなら・・・・、
「罪に対して死んだわたしたちが、
どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章2節・新共同訳聖書)
キリスト教の信仰とは、イエス・キリストに聞き従う信仰です。
イエス・キリストに聞き従って生きるということなのです。
「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節・新共同訳聖書)
生まれながらに罪深さを負っている私たち人間は、
罪の世界の中に生を歩む者は、
常に罪からの誘惑の下にあります。
しかし、少なくとも、イエス・キリストに聞き従うことによって、
悪の世界から救われるのです。
「 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章11節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 01 October 2009.