呪われた・のろわれたキリスト



キリスト教の信仰を持つということは、
人が何らかの形でキリストに出会って起こるところの心理的な状態と言っていいでしょう。
ところが、キリストに出会わないで信仰を持つことさえ起こりえます。
マリアに惹かれて信仰を持つことさえあるわけです。

キリスト教の信仰は、2000年前のイスラエルで起きた、
イエス・キリストの十字架の出来事に端を発しています。
しかし、現代のキリスト教は、
欧米の西洋風な感覚や価値判断から形作られたと見ていいでしょう。
でも、私たち東洋に暮らす日本人にとっては、
西洋からキリスト教が伝わったものの、
時間の流れが、日本的な信仰が加味され味付けされて、
日本的なキリスト教の信仰を形作ったようです。
ですから、聖書・バイブルに根差さない日本的な信仰が、
日本人ゆえに気付いていない内容が多々あるようです。
古今東西、その土地に昔からある土着の信仰と結びついた、
キリスト教の信仰さえ起きているわけですから。

キリスト教の信仰について正確に考えるなら、
聖書・バイブルをしっかりと読みこみ、
内容を理解することが必要かもしれません。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、
・・木にかけられる者はすべてのろわれたものである。・・と書いてあるからです。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・3章13節・新改訳聖書)

キリストが私たちのために呪われた者となって、
私たちを救い出してくださった・・・・という内容です。
キリストが私たちのために呪われた・・・。
それが救いにつながる・・・。
日本人にとっては、なんとも信じ難くなじまない展開です。

日本人の抱くキリスト教信仰へのイメージは、
清く貧しく・・であったり、
弱った心をいやすものとか・・・。
善良な弱者のための教会であったり、
善良だからこそ救われなければならない・・・とか。
クリスチャンは立派な人とか・・・。
そうありたいと願う者のために用意された信仰・・・とか。

しかし、聖書・バイブルが語るクリスチャン像というものは、
このようなイメージからほど遠いようです。

「それから、弟子たちに言われた。
・・わたしについて来たい者は、
自分を捨て、
自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。・・」

(新約聖書・マタイによる福音書・16章24節・新共同訳聖書)

”自分の十字架を背負って ”という言い方は有名です。
日本では、自分が負っている病気苦とか経済苦とか、
人間関係の苦しみとか・・・・。
自分自身が負っている様々な形の苦しみを言っているように考えているようです。
自分には自分にしか分からない特別な重荷があるのだと。

しかし、聖書・バイブルが語る自分の十字架とは、

何かの呪いがかけられているように、
その呪いが、常に私たちをしばり、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
さまざまな形となってあらわれているのです。
自分の力ではどうすることもできない、
生まれながらに負っている性質を言っているのです。
多くの日本人は、そうだとは気付いていません。
生まれながらに負っている性質は、
それゆえに、その性質を認めようとしない原因でもあるからです。

そのような呪われた人間に代わって、
イエス・キリストが呪われた者となって、
十字架にかけられ死刑となった・・・・。

ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・・という出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)。
イエス・キリストが死して私たちを呪いの状態から贖いだして下さった・・・・。

呪われたキリストとか自分の十字架とか、
どうも日本人が抱くキリスト教のイメージからほど遠いもののようです。
それらは、日本人が意味きらうものであり、
日本のクリスチャンにとってつまずきの石にさえなりそうです。
”呪わけている、あなたは罪深く罪人だ ”・・とでも言えば、
ショックを受けて、怒りだす人もいます。

私たち人間は、常に、
どうしょうもない状態に置かれているのです。
それも、何とかしなければならないのに・・・。
しかし、少しも気づいてはいない・・・。
いや、目や耳さえ閉ざしてしまうのです。


北白川 スー

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Wrote up on October 07, 2013.