色々なキリスト教
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世界には、それはそれは色々なキリスト教があります。
さまざまな価値観を持ち、”えっ、それでもキリスト教ですか ”というものまで。
日本のキリスト教も、そのひとつなのかもしれません。
キリスト教の信仰において最も根本をなすものとしての、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされないキリスト教があるとすれば。
キリストによる贖罪という出来事。
創造主なる神への罪から救うため、
キリスト・イエスが、
すべての人間に代わって、その罪を身に負い、
十字架にかかって死なれたという、
「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)
・・ひとりの人の不従順とは、最初の人間アダムのことであり、
ひとりの従順とは、十字架に死なれた神のひとり子イエス・キリストその人のことです。・・
ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・出来事の解き明かしが、
なぜ、日本のキリスト教の教会の説教から語られず、
”キリストの贖罪 ”が抜け落ちているのでしょうか。
それとも、日本のキリスト教の信仰には必要としないのでしょうか。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
では、何からの救いなのでしょうか。
経済的な困難や病気や人間同士の不和のことでしょうか。
救い主・キリスト・イエスが私たちに代わって・・・。
私たちの罪を、
ご自身の命をささげることによってつぐなってくださった出来事。
何のために・・・・。
それは、必ずやってくる ”主の大いなる日 ”、
神の怒りの裁きのとき。
創造主なる神によって創造された、
被造物としての、神の作品である人間が、
ひとりの例外もなく、
裁かれるために、
神の前に立たなければなりません。
「 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、
すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、
それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
(新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙・1章10節・新改訳聖書)
キリスト・イエスが再び来られるとき、
それは、やがて来る、必ず来る神の怒りの裁きのときなのです。
罪ある者として審判されれば、地獄へと落とされ、
罪が贖われた者として判定されれば、
天国へ、永遠の命へと移される・・・・。
神の前で正しい者として判定されなければ、
永遠に続く苦しみの中に落とされるのです。
私たちが、神の前で正しい者として、
義なる者として判定されるために、
私たちに代わって十字架にかかり、
自身の命をささげてくださったイエス・キリストを、
そのイエスを ”自分の主です ”と言葉で言いあらわす者は、
神の前で正しい者として認められ、
神の怒りの裁きから救われるのです。
「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
もしも、人間の罪について明らかにされないなら、
罪の赦しについても、
神との和解の出来事についても、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事についても、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事についても、
神の怒りの裁きについても、
明らかにされないのなら、
自分の生き方や考え方について、
それが正しいものなのか、
そうでないものなのかが明らかにはされないのです。
イエス・キリストの十字架による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を視点とした検証が行なわれないのです。
自分の人生が、
神への罪から解放され、
罪の呪いから解放され、
神の意志に合ったものなのか、
神の御心に沿った生き方なのか・・・・。
明らかにされずに人生を終えるとするなら、
待っているのは、
ただ苦しみに満ちた人生と将来だけなのです。
北白川 スー
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Wrote up on September 17, 2012.