クリスチャンだって同じ人間
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会社や学校や地域社会などの、
共同社会における営みにおいても、
家庭生活であっても、
クリスチャンの個人的なものや、
クリスチャン同士や、
夫婦共にクリスチャンであっても、
人と人との暮らしの中で直面し、
人の違いが理解できず、悩み苦しみ、
どうすればよいのか分からないことは多々あります。
聖書・バイブルが指し示しているのは、
どのような時であってもキリストは、あなたを見守っておられる。
あなたと共におられるのです・・・。
キリストは、常にあなたに問いかけられています。
しかし、問われているとは、
キリストから問いかけられているとは気づいていないだけなのです。
クリスチャンだって同じ人間です。
弱くて愚かな存在なのです。
まず、自分みずからが、
人間という存在は、ひとりの例外もなく、
基本的に、愚かで弱い者だという認識に立たなければなりません。
そうでないとするなら、
イエス・キリストの十字架の出来事は意味を失います。
すべての人間は、欠陥がある故に、的外れな言動に走るのです。
人間の生まれながらに持っている性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。
クリスチャンは、救われたからといって、赦されたからいっても、
本性的な性質は何ら変わりはありません。
クリスチャンであっても、欠陥を引きずっているのです。
ただし、人生において目標となるものが、
指針となるもの、頼るべきものが明確になっているはずです。
主イエスに支えられ、
主イエスに導かれているはずです。
「互いにうそをついてはなりません。
古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、
日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
(新約聖書・コロサイの信徒への手紙・3章9〜10節・新共同訳聖書)
「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、
あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」
(新約聖書・コロサイの信徒への手紙・3章12節・口語訳聖書)
クリスチャンになったからといって、
そうしなければならないというような努力目標ではなく、
クリスチャンだから清貧であるべきだというのではなく。
信仰を告白し、罪を赦され、魂の救いを得た者には、
つまり、クリスチャンとなった者は、
「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、
わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
神はまた、わたしたちに証印を押して、
保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・1章21〜22節・新共同訳聖書)
「わたしたちは、御霊の助けにより、
信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章5節・口語訳聖書)
神から受けた御霊によって、
内面への働きかけと変化を身に着けることができるのです。
古い人をその行いと共に脱ぎ捨て新しい人を身に着けたはずです。
生まれ変わったのです。
クリスチャンになっても、
クリスチャンになる前と、何ら変わり映えしないのなら、
まことに方向転換したのか疑ってみてもよいでしょう。
その信仰告白が真実なものであったのかを。
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章13節・新改訳聖書)
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
これらを禁じる掟はありません。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章22〜23節・新共同訳訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on December 19, 2016.