自分の義を求めて
教会には、何か解決できないものがあって、どうしたらよいか分からず、また迷い、思いつめ、苦悩に満ちた、ゆがめた表情の方がよく来られます。
それも、自分の義を求めて教会にやって来られます。
教会なら自分の義を認めてくれるだろうと、受け入れてくれるだろうと思って。
自分の所属する人間関係や社会では認められず、
自分の正しさを知ってほしい、聞いてほしい、認めてほしい、受け入れてほしい・・・・と。
自分の生き方にたいして肯定的な言葉や励ましを期待して・・・。
牧師は、もっぱら精神的な心のカウンセラーのように、悩み事などの聞き手であって・・・・。
教会はそのような所なのだという理解が一般的なのです。
なぜ、このような感想が一般社会にあるのでしょうか。
社会的弱者や心を病んでいる人が教会の対象として見られているのでしょうか。
もっぱら心の病をケアする所としてであったり、人々の多様な必要に答えるところが教会だという理解なのでしょうか。
だから、多くの人は、自分には用がないところだと思っているのです。
聖書・バイブルは、信仰による義を歌っています。
信仰によらなければ神の前で正しい者とはされないのです。
人間の義はあくまで従であり、あくまで神の義が主であり先に立っているのです。
私たちの義は 「神の下にある義」であり、信仰による義なのです。
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章17節・口語訳聖書)
しかし私たちは、神の正しさを知らないで、自分の正しさばかりを追い求め、また立てようとしているのです。
「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章3節・新共同訳聖書)
キリストの福音には神の義が啓示されています。
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事を信じる者は、
イエスが十字架の上で、すべての人の罪をその身に負い罪人として処刑され、葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事を信じる信仰によって、神の前で正しい者とされるという・・・・。
イエス・キリストを信じることにより与えられる神の義なのです。
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章22節・口語訳聖書)
また聖書・バイブルは、
人間の不義が神の義を明らかにするとも語っています。
「もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、・・・・」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章5節・口語訳聖書)
人間というものは、自分の持っている価値観からなかなか自由になれないものなのです。
自分が正しいと思えば思うほどに、人はますます苦しみに深入りしていくことになるのです。
なぜなのでしょうか・・・・、それは私たちの本性がそうさせるのです。
すべての人の人生の起源とでもいうべきものがそうさせるのです。
だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の内容と意味が教会で語られなければ、
私たちは、自分自身の本性、生まれながらに負っているものを理解することはできないのです。
私たちの思いや言葉や行為といった具体的なものよりもさらに深いところのあるものを・・・・。
それが明らかになってこそ、そこからの脱出の道も明らかになるのですから。
生まれながらに負っている罪深さが、思いとなり言葉となり行為に行動とになって現われてくるのです。
その罪深さから救い出すものこそ、キリストの福音なのです。
自分自身の価値観に頼るのではなく、キリストへの信頼に生きるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 10 January 2009.