豊かな人であっても貧しい人であっても
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イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
経済的に豊かな人であっても貧しい人であっても共に同じメシアを、救い主を必要としていることをあらわしているのです。
健康な人であっても病床の中にあっても、
孤独を味わっている人であっても、
多くの友人や知人に恵まれている人であっても、
メシア・救い主を必要としているのです。
ひとりの例外もなく、
すべての人は救われなければならないのです。
何から救われなければならないのか・・・・。
この世界を創られた創造主なる神が、
その神が、ご自身のひとり子、
イエス・キリストの生と死と復活において備えてくださっている、
”素晴らしい救い ”・・・・。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
この世界を創造された父なる神は、
ご自身のひとり子を、私たちのために死にわたすことによって、
世界を、私たちを愛してくださっていることを証しされたのです。
最初の人間アダムが、
創造主なる神の命に背いて、
取って食べると死ぬから、
取って食べてはいけないと命じられていた、
善悪の知識の木から取って食べたことによって、
神の怒りを受け、
楽園から追放され、
私たちの生の中に死が入り、
地は呪われ、
それ以来、罪深さに満ちた人類の歴史が始まったのです。
この罪にたいしては裁きが待っています。
必ずやって来るこの世の終わりのとき、
生きている人も、かつて生きていた人も、
神の裁きの座の前に立たされることが決まっているのです。
その裁きからの救いこそ、
キリスト教が示している救いのことなのです。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)
イエス・キリストは、父なる神の、私たち人間にたいする裁きを、
私たちに代わって、
十字架にかかって死ぬことによって神の怒りをその身にお受けになり、
私たちにたいする神の愛を示されたのです。
そのイエス・キリストを信じる信仰によって、
私たちは、神の裁きから救われ永遠の命へと移されるのです。
「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、
自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、
食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、
命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」
(旧約聖書・創世記・2章7〜9節・新共同訳聖書)
エデンの園の中央には、
いのちの木と、善悪を知る木とが生えていたのです。
人間の始祖であるアダムは、
いのちの木でなく、
善悪を知る木を選んでしまったので、
その選択によって、
アダムに続く人類のなかに、
罪深さに満ちた歴史が始まることになったのです。
北白川 スー
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Wrote up on 13 August 2011.