信仰におけるグローバルとローカル


 聖書・バイブルの世界は、世界標準に違いありません。

 教会も信仰も、

 イエス・キリストがすべての人のために十字架にかけられ、

 死して私たちの罪を贖って(あがなって)くださったという出来事の上に建てられているのですから。

 ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・という出来事の上に。

 では、ことこの日本ではどうでしょうか。

 まず、キリスト教の教会にたいする認識は、

 一般的に教会をどのように見ているかと言えば、

 教会というところは、

 心に病を抱えている人たちや、

 現代社会の病理に傷ついたり、

 人と人との人間関係に傷つき、居場所を失ってしまった人たちの、

 受け皿としての機能と施設として、

 社会的な役目を担っているところだと・・・・・。

 そのように認識され、期待されているのです。

 だから、教会にやって来た人たちにたいして、

 その人の生き方や、やり方、考え方にたいして、

 社会的な評価を得られなかった人たちにたいして、

 肯定的な態度と言葉と姿勢とで接するものなのだと・・・・。

 だからと言って、

 自分を信じてあきらめないで・・と、はげますのでしょうか。

 それらが教会の大切な働きであったとしても、

 それがすべてではありません。

 聖書は明確に指し示すのです。

 「悔い改めなさい。神の国が近づいたから。」・・・と、

 神の国、すなわち神の支配が近づいたから、

 自分自身の思いや言葉や行動や、

 精神のあり方などを、

 深く見つめて・・・・思い知らされよと。

 私たち被造物としての人間は、

 この世界を造られた創造主なる神に仕えるものなのだと。

 神の国の福音を聞き知ったとき・・、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を聞き知ったとき・・・。

 私たち人間は創造主なる神に背き、

 神の栄光を汚している存在なのだと・・・。

 自分自身の罪深さが身にしみて、

 はっきりと分からされるのなら・・・・・。

 ”罪の赦し(つみのゆるし)”と、

 ”神の裁き(さばき)からの救い”という事柄も理解できるようになるのです。


 「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。

 その目的は、

 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、

 自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章15節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 21 August 2010.