聖書が語るグローバル・スタンダード
聖書が語るグローバル・スタンダードこそイエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
教会の標準という意味で、
教会がキリストの福音を語り伝えることのよりどころとなる目じるしとして、基準として。
それによって行動することが求められるものとして。
それは、まぎれもなく、間違いなくイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
しかし、それなのに常に脳裏につきまとう疑問があります。
日本では、なぜイエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされないのか・・・・。
なぜ・・・・、
教会の日曜日の礼拝の説教において、その日が特別にという意味ではなく常に、ストレートに、くりかえしくりかえし、
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事が、なぜに解き明かされないのか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を・・・・。
まさしくそれがすべての人に向けて語り伝えられようとしている福音の中身であり本質なのです。
聖書が語るグローバル・スタンダードは、
まさしくイエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事にちがいないのですから。
「 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章17〜19節・新共同訳聖書)
人類の始祖であるアダムが創造主なる神に背いたことによって、
すべての人が罪に定められたように、
ひとりの義なる行為によって、すなわち神のひとり子イエス・キリストがすべての人の罪をその身に負い、罪人として十字架にかかり死刑となり、罪をつぐなったという出来事によって、
その行為を信じる信仰によって、
永遠の命を得させる義がすべての人に及ぶのです。
なぜなら、イエスは死人の内から復活されたのですから。
それが永遠の命への確かな証しなのですから。
キリスト教信仰というものから、
信仰者の人生から、
イエス・キリストの十字架の出来事が欠落しているなら、
イエス・キリストの十字架の出来事との関わりから遠いものなら・・・・・・。
信仰による希望というものは、どこからやってくるのでしょうか。
信仰というもの、キリストへの信頼というものは、
信仰者の全部をひっくるめて一つにまとめることができるものが、
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
それによって救われたのですから・・・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事を知ってこそ、
自分の罪深さを見せ付けられるのですから。
北白川 スー
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Wrote up: 14 August 2009.