聖書は、グローバル・スタンダード


 聖書の世界は、グローバル・スタンダード、世界標準なのです。

 キリスト教の信仰であっても同じです。

 そこに、日本的な信仰というものを持ち込めば、

 世界標準から外れたものになるのです。

 このように書けば、ずいぶんとお叱りを受けます。

 聖書の世界は、グローバル・スタンダードなのです・・・。

 言い方をかえれば、

 日本の教会は、また日本のクリスチャンの信仰は、

 なぜ、聖書的なものにならないのか・・・・。

 という問題でもあります。

 キリスト教の信仰とは、

 この世界を造られた、創造主なる神を信じるということです。

 創造主なる神と、被造物としての人間の関係なのです。

 創造主なる神と、被造物としての人間を、

 その関係が壊れていたものを、再び結びつけることを意味しているのです。

 キリスト教の信仰のドラマは、

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事なのです。

 イエス・キリストは、身をもって、

 私たちに、はっきりと分かるように、

 十字架の上で死なれたのです。

 そして葬られ、三日の後に死人の内から復活されたのです。

 この出来事において明らかにされているのは、

 ある特定の人のためにではなく、

 ひとりの例外もなく、すべての人が対象なのです。

 つまり、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事にこそ、

 キリスト教の信仰は、

 クリスチャンの信仰は、

 その基礎があり支えられているのです。

 キリスト教の信仰とは、そのイエス・キリストの出来事により基礎付けられ支えられているのです。

 この出来事を抜きにして信仰を考えるわけにはいきません。

 さらに、この出来事において、

 その出来事の内容と意味とを聞き、知り、理解することによってこそ、

 自分自身の、

 思いや言葉や行動や、精神のあり方などを、

 くりかえし味わい、深く見つめることができるのです。

 思い知らされるなら、さとされるなら、

 はっきりと分からされるなら、

 自分自身の罪深さが身にしみて分かるなら・・・。

 イエス・キリストは言われました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 キリスト教の信仰において問われているのは、

 だれひとりの例外もない、

 私たちひとりひとりの姿勢なのです。


 「・・・・・福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、

 信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 福音には、神の義が啓示されていますが、

 それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。

 「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 14 August 2010.