イエス・キリストの死



キリスト教の信仰において、もっとも大切であり、
もっとも本質的と言っていいテーマ・・・。
それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです・・・。

もしもクリスチャンの信仰に、
キリストの十字架の出来事が抜け落ちているとしたら、
その信仰を疑ってみてもいいでしょう。

この出来事は、神のひとり子イエスが、
愛する者のために死んでくださった・・・・・という出来事です。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・15章13節・新共同訳聖書)

また、神の怒りの裁きの出来事とも言われます。

私たちが受けるべき神の怒りの裁きを、
その裁きを、私たちに代わって受けてくださった出来事こそ、
キリスト・イエスの十字架の出来事なのです。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章8節・新共同訳聖書)

神の怒りの対象である者のために、
神ご自身が、その命をささげ、犠牲となられた出来事なのです。

この出来事は、私たちが知ることのなかった、
聖書・バイブルが、始めて明らかにした価値観なのです。

私たちの感情では、とうてい実現することのないものなのです。
私たちの社会では、ままならない義務のために死ぬことがありますが、
憎しみの感情を持つ相手のために自らが死ぬという価値観は、
悪口を相手に浴びせはしても、
憎らしい人のために死んであげるという・・・、
私たちの怒りの感情には存在しません。

しかし神は、怒りの対象である人間のために死なれたのです。

神の創造をないがしろにし、
神に背き、神に敵対している私たちのために・・・。
神は命をささげられたのです。

しかし、そうだと気付いていないところが人間の最悪なところなのです。

人間が基本的に盲目で、目が見えないのと同じ状態で、
自分自身が見えず、まわりまでもが見えず、
何事も、疑いと問いかけを持って見ることができない、
高慢で愚かで弱い存在であるという認識に立たなければ、
そこから抜け出すことなどできないのです。

決して私たちが正しいからキリストは死んでくださったのではありません。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、
定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章8節・新共同訳聖書)

人間の愚かしさを認識することが信仰の出発点なのです。
もちろん自分自身をも含めて。

そうしなければ、
イエス・キリストの十字架の贖罪という出来事は理解できません。

愚かで弱い存在だからこそ、救いの手が差し伸べられているのです。

そうではなく、自分は正しいと思うなら、
イエスの死は意味を失ってしまいます。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on May 08, 2014.