人は、心の空白を満たそうとする



好きな音楽に耳をかたむけ、お気に入りのワインを開けて、
ほっとひと息つくとき、それは、
いやしのとき、安らぎのひとときです。
しかし、それも長続きはしません。
ひととき満たされても、
後にやってくる空虚と不安は大きいものがあります。

先に何があるのかも分からず、同じことのくりかえし、
考えれば、むなしく毎日を送っているのかもしれません。

人はそれぞれ自分たちのやり方で、
心の空白を満たすものを求めて・・・、
ありとあらゆるものを試みようとします。
次から次へと・・・。

決して、自らの限界を認めようとはしません。
すべてが思い通りにいくものと思っているし、
またそのようになると信じています。

しかし、望むものが何もないほど満ち足りた暮らしというものは、
夢の夢なのだということも知っています。
でも、認めたくはないのです。

現代人の暮らしに充足感がないということは、
私たちの心の貧しさそのものをあらわしているのかもしれません。

そんなことはない、心が貧しいだと・・・。
我々は満ち足りている、豊かだ・・・。
聞きたくもない、知りたくもない、考えたくもない・・・・。
知らないうちに何かが進んでいることに気がついていないだけなのだろうか、いやちがう。
努力すれば、きっと道は開けてくるものなのだ・・・・。
我々の未来は明るい・・・。

しかし、考えも及ばなかったことがあるとしたら。

「 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
・・目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。・・」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・2章9節・新改訳聖書)

人の目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、
人の心に思い浮かんだこともなかったこと、
これこそ、神がご自分を愛する者のために用意してくださったものなのです。

心の空白を埋めようと、いろいろと試しているのに、
まだ聞いたことも見たこともない、
いまだ知られないものがあるとしたら。
つまり、まだまだ知らないことがたくさんあることを意味していることを、
知らなければならないということです。

私たちが、心の空白を埋めようとするあらゆる行為も思いも、
その知らない何ものかが、
私たちの心を揺り動かしているとしたら・・・・。

遠いところにあるものではなく、
ごく近くにあるものから、それはやって来ます。

「 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、
それは、神が、私たちの栄光のために、
世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。
もし悟っていたら、
栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙2章7〜8節・新改訳聖書)

「 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、
わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
・・わたしはここだ、わたしはここだ。・・と言った。
わたしは、反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
一日中、わたしの手を差し伸べた。」

(旧約聖書・イザヤ書65章1〜2節・新改訳聖書)

私たちの持っているものをはるかに越えた存在というものは、
私たちの常識というものや、
私たちの思いというものによって測ることのできないものであり、知り得ることのできないものなのです。

私たちは、この世の常識や判断によって生きています。
また、それこそが最も正しくすべてに役立つものと思っています。

ですから、私たちが絶対的な存在を捕らえようとしても、
簡単に捕らえられるものではないのです。

人は、そこに神ならぬ神を、真実ではない宗教などを持ち出して来ます。

しかし、神は、私たちには示されました。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事をして、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を。
神の啓示の出来事として。

そうです、その方は、あまりにも身近に、
あまりにも近くにおられるからです。

かがやく太陽に抱かれた私たちの暖かさというものは、
その恵みはしごく当然のように思っているはずです。
あまりにも日常的で、当たり前のようにです。
ですから、いまさらとりたてて、
その恵みを恵みとしてとらえず感謝もしないはずです。

心は、恵みを恵みとしてとらえないのだから、
その恵みから離れていって、
状況はますますむなしくなるばかりだと考えてもいいでしょう。

恵みというものは、
神が私たちから遠く離れたところにおられるのではなくて、
最も身近におられて、私たちを愛されているということ、
神の愛の身近さというものこそ、
神が、私たちのために備えてくださったものなのです。

私たちの心の空白を満たすものこそ、
気づかずにいる神の愛の身近さそのものなのです。

聖書・バイブルが語る神の愛とは、
世界を造られた父なる神が、人として来られ、
イエス・キリストにおいて、
十字架の上で死にいたるまで私たちを愛してくださった出来事なのだと語ります。

「 キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、・・イエス・キリストは主である・・と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜11節・新共同訳聖書)

私たち日本人は、神や宗教や信仰というものに、とても強い拒否反応を示します。
信仰を人間に属しているものと見ていますから、
度が過ぎると生活の秩序を乱しかねない非現実的で非科学的なものなのだと考えるからです。
しかしそれが、外側から宗教美術を見るようなものなら許すことでしょう。
そうです、信仰というものも人間の生きている過程の中に、
人間の存在とともにあるものなのです。
そうであればこそ、
信仰というものによって心の空白を満たすことができるのです。
ただし、それが目的になってしまいかねないから、問題視されるわけです。
本来的な信仰というものは、
日々の暮らしの中に根ざしたものであって、
暮らしから離れた熱心は、
ご存知のように、誤った熱心は、かならずや暮らしの秩序を乱します。

そうではなく、日常の中でイエス・キリストの十字架の出来事に耳をかたむけることこそ、
心の空白を満たすものであり、
イエス・キリストという神の愛そのものに思いをめぐらすことなのです。

その日本人が最も嫌うものに、
日本人の心を満たすことのできるものが隠されているのです。

「人間のことは、人間の内にある彼(イエス)の霊のほかに、
どんな人間が知っているでしょうか。
同じように、神のことも、神の霊のほかだれも知りません。
わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊です。
それは、神から恵みとしていただいたものをわたしたちが知るためです。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙2章11〜12節・フランシスコ会訳)

まさしく、神秘としての神の知恵、隠されている知恵なのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 20, 2013.