人はそれぞれの理由を持って


 人は、人それぞれの理由を持ってキリスト教の教会にやってきます。

 そのとき、キリストの教会で、

 まず第一に、ほかの問題よりも前に、何よりも優先して、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという、

 神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが解き明かされない場合・・・、

 人は、それぞれに自分流の神の概念を作り上げてしまうものです。

 ・・さらに、ほかの人も自分の思い描く神と同じ神を信じているとさえ思い込んでしまうのです。

 聖書・バイブルが語る神とは、

 自分の思い描く神ではなく、

 すべての人々にむけて語られる神なのです。

 ・自分から・という方向性ではなく、

 神から届くという方向性において、

 神から発信され、神が望まれるものを・・・、

 神が人間を求められているのであり、

 人間が神をさがし求める神ではないのです。


 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、

 霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。

 そうだ、今きている。

 父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・4章23節・口語訳聖書)


 人は、人それぞれの理由を持ってキリスト教の教会にやってくるわけですが、

 自分の抱えている問題の前に、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事が語られ、

 また聞かれ、そして理解されてこそ、

 まことの神の概念というものが成り立つのです。

 そうでなければ私たち人間は、自分勝手に自分流の神のイメージを作り上げてしまうのです。


 「神は霊であるから、礼拝する者も、

 霊とまことをもって礼拝すべきである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・4章24節・口語訳聖書)


 日本ほど、神と、キリストと、十字架とが、

 ばらばらにとらえられている大変珍しい地域社会はほかに例をみません。


北白川 スー

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Wrote up: 02 April 2010.