神の慈愛と悔い改め
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ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
十字架にかけられ、罪人として処刑され、
ひとりの例外もなく、すべての人の罪をその身に負い、
ご自身の命をささげることによって、
すべての人の罪の代価を支払ってくださったという出来事なのです。
すなわち、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
まさしく、ひとりの例外もなく、
私たちは神の前では、
すべて罪人だということを明らかにしているのです。
私は罪など犯してはいないと言う人を含めてです。
「・・・神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、
その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章4節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルが示すのは、
生まれながらに負っている私たちの性質・罪深さという性質が、
思いとなり、言葉となり、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているということです。
「 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、
御怒りの日、
すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章5節・新改訳聖書)
イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの例外もなく、私たちを、神の前に立たせる出来事です。
その出来事の内容と意味とに接することによって、
初めて、
神の前に立って、
自分の生き方や生き様を見直すことができるのです。
自分の生き方や考え方、行為や行動にいたるまで、
見直すことができて、
すべてを改めようと・・・・自覚させるものなのです。
今までの過去を捨てて、
新しい生を求めて神に立ち帰る・・・。
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事に接して、
初めて悔い改めへと導かれるのです。
悔い改めを、”以後気をつけます”とか、
行動の連続性における更新と捕えるなら。
それは、根本的な方向転換とはならないし、
根本的なライフ・スタイルの変更とはならないのです。
”悔い改め ”とは、
創造主なる神に、
私たち人間をも創造された、
父なる神に立ち帰ることであり、
人生の大きなターニング・ポイントとなるものなのです。
「 そのように私たちは神の子孫ですから、
神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、
日を決めておられるからです。
そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(新約聖書・使途の働き・17章29〜31節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 20 June, 2012.