神に愛されている人
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キリスト教では、神は愛だと言われている・・・。
神の愛による決断と態度の決定というものこそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
神の愛を受け入れるということは、
まぎれもなく、このイエス・キリストの十字架の出来事を受け入れ、ただ承認することだけなのです。
私が礼拝に通っている教会に知識が豊かな人がおられます。
しかし、彼は、いつも、
自分は、神に愛されているという自信が持てないとなげいています。
十字架により死なれたイエス・キリストへの信仰を持てば、
神に愛された者、
神の子とされるのが、
キリスト教の信仰でなければ味わうことのできない独特の良さなのですが。
彼は、自分には神に愛されるほどの才能は恵まれていないと言います。
まわりにいる私から見ても、
同じ教会のクリスチャンたちから見ても、
彼は知識に富み、秀才に属する方なのです。
それなのになぜ、どうしてと思います。
彼は努力家でもあり、努力を重ねて今の地位を勝ち取ってきたのです。
しかし彼は、
神に愛されているという喜びの中にある人を見て、
努力もせずに神に愛される特権を手にした人を見ることにたえられないのです。
彼の人生は、自分を築き上げてきた人生なのです。
彼のプライドというものが、
自分への過信というものがそのようにさせているのかもしれません。
聖書・バイブルは次のように語っています。
「 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・2章16節・新改訳聖書)
何の働きもない人であっても、
不信仰な者でさえ神の前で正しい者として認めてくださる方を信じるなら、
その信仰によって、
神の前で正しい者とされるにふさわしい者とみなされるのです。
信仰というものは、努力など必要とはしません。
ただ自分の「主」として、
私たちの罪のために、私たちの罪の代価を、
十字架にその命をささげることにより支払ってくださった、
イエス・キリストを受け入れるだけなのです。
ただ、それだけで神に愛される者となれるのです。
いまだに、その彼は、
神に愛されているとは知らず、
自分を築いてきた自尊心を捨てることができず、
体面と面目を失うことに恐れ、また嫌い、
自分の生き方を主張し続けているのです。
彼は、愛されたいと望むのではなく、
ただ理解されたいと願っているに過ぎないのです。
しかし、神の愛は彼をとらえている。
しかし彼はそれを知らない。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 07 February 2012.