天国と地獄・その3


 限りある人生・いのちを思う・・・。

 老齢とか老人とかに手が届きそうな年齢になって初めて、

 限りある人生・いのちを思うことがしばしば・・・。

 若かったときの思いや行動やあり方について、反証したり反省することが多くなります。

 あのときは、なぜ気づかなかったのだろうか・・と。

 なぜ聞く耳を持っていなかったのか・・・と。

 あのときに、イエス・キリストに出会っていたなら・・・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の解き明かしを聞いていたなら・・・、

 すべての人類にとって、

 おどろくべき出来事の解き明かしを聞いていたなら、

 キリスト教の信仰を持つようになっていたかもしれない。

 信仰を持つようになって、やっと分かることなのだが、

 人間の現実の姿というものを、

 目をそらさずに、

 関心を持って、じっと見つめることができるようになるのです。

 人間とは、実に、当てもなく、さ迷い歩いている存在であることが分かります。

 私たち人間は、迷いの世界の中にあるからこそ、

 この世界を造られ、私たち人間をも造られた創造主なる神の・・、

 私たちの主であるはずの、

 つまり、導き手であり、リードしガイドしてくれる神・・・、

 その神の世界を、

 私たち人間には、遠く及ばない、

 神の価値観を思うからこそ、

 今を生きる力が湧いてくるものだと。

 限りあるいのち・限りある人生を思うことができるのだと。

 私たち人間は、いずれ死をむかえます、

 確実に死に向かって人生を歩んでいます・・・。

 若いときなら、そのような感覚はないことでしょう。

 しかし、人生の終わりが目の前に迫ってきているときとなれば、

 目に見えない向こう側への関心は、

 いやがうえでも高まってきます。

 キリスト教の信仰とは、

 生きている者が、死後の世界について、

 決定的に、明らかな判断を持つことを明らかにしています。

 聖書・バイブルが明らかにする神は、

 死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです、

 生きているときにこそ、死後の世界への希望を持つこと、

 天国を、御国を相続することのできる権利や切符を手にすること、

 それがキリスト教の信仰なのです。

 今の幸せ、今の豊かさを求めるのがキリスト教の信仰ではありません。

 迷いの中にある以上、求め願っている幸せも豊かさも、

 それはまことの幸せでも、まことの豊かさでもないのです。

 目に見える望みが望みではないのです。

 現実の私たちは、

 目先の欲求にとらえられ、ますます混乱は増してきます。

 人間は創造主なる神によって造られた被造物なのです。

 創造主なる神に栄光を帰すことを、創造主なる神は求めています。

 しかし、私たち人間は、神にではなく目先のことに捕らえられています。

 それは、神の裁きの対象なのです。

 今、現実の、目の前にある問題の解決こそ救いだと思っていても・・・。


 「また、人間にはただ一度死ぬことと、

 その後に裁きを受けることが定まっているように、」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・9章27節・新共同訳聖書)


 この ” 神の裁き ” から救われることが、

 キリスト教の信仰が言うところの ”救い ”そのものなのです。

 神の裁きから救われた者こそ、

 死後の世界への希望があればこそ、

 死の恐怖は消え去り、

 今を生きる力が湧いてくるのだと・・・。

 この世界に生きる以上、

 どのようにあがいても、どうあがいても混乱と混沌から抜け出すことはできません。

 創造主なる神の導きがあってこそ、

 被造物としての人間の道が、そこにあるのです。

 キリスト教の信仰とは、

 この混乱と苦しみに満ちた世界であっても、

 心を安らかに、安らかな心で死をむかえることのできるものなのです。

 神の裁きから救われているからです。

 永遠の命が約束されているからです。


 「事実、わたしの父のみこころは、

 子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

 わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・6章40節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 22 Octomber 2010.