救われるために、何をしなければならないのか


 まず一般的な日本人は、救われなければならないほど落ちてはいないと思っているはずです。

 まんざら捨てたものではないと・・・・

 科学は進歩し、それにともない生活も豊かになった、

 ただし、その用い方を人間は間違っているだけだと。

 だから今は、世の中は混乱に満ちているけれど、

 やり方しだいで未来は明るいものになるとさえ考えているはずです。

 自分たちの力や知恵によって、

 また善い行いを積み重ねることによって、

 明るい素晴らしい未来を、暮らしを作ることができると信じているはずです。

 またそれを目的に、また目標にすることが良いことで正しいとさえ思っているはずです。


 しかし聖書・バイブルは、

 「 人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・9章16節・口語訳聖書)

 「 しかし、恵みによるのであれば、

 もはや行いによるのではない。

 そうでないと、恵みは恵みでなくなるからである。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・11章6節・口語訳聖書)


 人間の知恵や力で、地上に天国を造りだすことができるならば、

 メシア・救い主イエスがこの世界に生まれ来た意味がなくなります。

 天国はあくまで神のところに存在するわけで、

 人間の手によって、知恵によって、

 この地上に天国を造りだすことはできないのです。


 「義人はいない、ひとりもいない。

 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

 善を行う者はいない、ひとりもいない。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章10〜12節・口語訳聖書)

 「律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」

 (新約聖書・ガラテヤ人への手紙・3章10節・口語訳聖書)


 とさえ言い切っています。

 私たちは、すべて罪の下にあるのです。

 だから、このように言えます。

 人間がみな悪に染まっているのなら、

 神に救ってもらわなければならない・・・・・と。


 「人が義とされるのは、

 律法の行いによるのではなく、

 信仰によるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章28節・口語訳聖書)


 なにものかによって捕らえら縛られている私たちは、

 なにものかによってとらわれている私たちの意志は、

 自分ではどうすることもできないほど強い、

 あらがいようのない強い恵みによってのみ救われるのです。


 「主イエスを信じなさい。

 そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」

 (新約聖書・使徒の働き・16章31節・口語訳聖書)


 聖書は、” ただ信仰による ” と言い切るのですが、

 これがまた、人間にとっていちばん難しいのです。

 ついつい行いに行為に行動に走ってしまうのが人間なんですから。

 本当に落ち着かない性質です、人間とは。


北白川 スー

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Wrote up: 23 September 2009.