キリスト教と言えば十字架でしょうか
キリスト教と言えば、なんと言っても十字架です。
キリスト教を象徴するものとしての十字架なのです。
キリスト教そのものと言っていいでしょう。
キリスト教の概念を具体的にあらわしていると言っても言い過ぎではありません。
神のひとり子であるイエス・キリストが十字架にはりつけになり死刑となった十字架・・・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという十字架・・・。
すべての人の罪をその身に負い罪人として処刑された十字架なのです。
どうして・・・・・。
十字架は何をあらわしているのかと言えば。
難しく言えば。
神のひとり子イエス・キリストの十字架は、
この世界を造られた創造主なる神と、
私たち人間との、ただひとつの接点なのです。
私たち人間も被造物・・・・この世界を造られた神の作品なのです。
人類最初のアダムとエバが創造され、
それ以後、歴史を刻んできた人類なのです。
そのアダムとエバが、創造主なる神の命令に背いたことにより、
創造主なる神との関係を断たれ・・・・、
それ以後の人類は、
だれひとりの例外もなく、ことごとく・・・・、
労苦してこの世界をさ迷い歩かなければならなくなったのです。
創造の初めのころ、アダムとエバは、
自分たちを造られた創造主なる・・父なる神を知り、
神をあがめ、交わり、聞き従う存在でした。
しかし、その創造主なる神に背いたため・・・。
エデンの園において、取って食べてはならないと命じられていた善悪を判断する果実を取って食べたため・・・・・。
神の怒りにふれ・・・・・、
つまり創造主なる神にたいして罪を犯したため、
それ以後の人類はことごとく、罪の性質を持って生まれてくることになってしまったのです。
アダム以来・・・・、
その罪の性質が、
とだえることもなく、いつ果てることもなく延々と受けづかれてきたのです。
私たちの思いとなって、また言葉となって、行為行動とになって、
神にたいして、人にたいして、また自分自身にたいして罪を犯し続けているのです。
それが現実の私たちの姿なのです。
問題の多い人類・・・・・、
悩み苦しみ続けている私たちの姿なのです。
では、人類は、そのような状態から、
どのようにすれば救い出されるのでしょうか。
創造主なる神との関係をたたれてしまった人類が、
その創造主なる神と和解すること・・・・・。
それ以外に方法はありません。
そのために、
創造主なる神は、ひとり子イエスを、人としてこの世界に生まれさせ、
罪深い私たち全人類の身代わりとして、
その命と引き換えに、私たちの罪をつぐなわせられたのです。
それが、ひとりの人がすべて人のために死んだという出来事なのです。
それがイエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
創造主なる神が、神のひとり子イエス・キリストにおいて、
私たちの存在というものを、どのように取り扱われ処理されたのかという・・・・・具体的なもの・・・・・。
それが十字架なのです。
キリスト教の信仰とは、
このイエスの十字架の出来事にあらわされたように、
この十字架の出来事を真実として信じること、
イエス・キリストを、自分の ” あがない主 ” として信じること。
そして、信じることによって、その罪が赦され、取り消されるのです。
このイエスの十字架の出来事を真実として受け止め、
イエス・キリストを自分のあがない主として信じるという・・・、
その方向性や態度こそ、
つまり、キリスト教の言う ” 悔い改め ” そのものなのです。
今まで神に背を向けていた者が、
神に向きを変えること、神に聞き従うという変化そのものなのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 28 August 2009.