人間の生と死・・・と罪と神の審判
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神にたいして罪を犯した人間の生に死が入り、
その罪を死にわたすことによって永遠の命に移される。
永遠の命から死の世界へ、そして再び永遠の命へ。
これがキリスト教のダイナミズムです。
神にたいする罪は、その罪が贖われ(あがなわれ)てこそ罪は消えます。
この世界を創造された創造主なる神は、
人間をも神に似た姿に創造されました。
しかし、その最初の人間が、
創造主なる神に背いたことにより、
楽園から追放され、
迷いの世界へと落とされるのです。
さらに、罰として人間の生に死が入ってきます。
そのようにして、
人間は生まれながらに罪深さを負って生まれてくることになります。
人間の歴史の始まりです。
人は、死を恐れます。
人生の最後に破滅が待っていると思い恐れるのです。
しかし、人の人生は死では終わらないことを知らなければなりません。
最後には、その人の人生についての神の審判が待っているのです。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)
これが創造の摂理なのです。
私たち人間は、創造主なる神の作品、被造物なのです。
作品は作者に栄光を帰すもの、当然の話です。
しかし、罪に落ちた人間は、
自分は特別な存在だと思っています。
そこから迷いが生まれてくるのです。
それが罪の真実の姿なのです。
しかし、創造主なる神の意志はそうではありません。
作品にたいする作者の愛は永遠です。
作品は作者の命と言っていいのですから。
「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)
私たちは、なにかと荒波にほんろうされ、
混沌とした人生を送っています。
だれしも、心安らかに人生を生きたいと願っています。
そして心安らかに死をむかえたいと願うものです。
しかし現実はそうではありません。
私たち神の作品としての人間の命は、
作者である神のものです。
この迷いの世界から解放されて、
再び神のもとへ帰り永遠の命へと移されたいと願うなら・・・。
神の意志に聞かなければなりません。
それが神の啓示なのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
私たちに代わって神の裁きを受けて下さったイエス・キリスト。
裁きを受けて、裁かれ、
永遠の苦しみに落とされるのではなく、
永遠の命へ移されたと信じるなら・・・・。
罪を死にわたさなければ罪から解放されません。
イエス・キリストの生と死とを信じなければ、
私たちは救われないのです。
神の裁きから救われないのです。
「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
人間の人生は死では終わりません。
人生の最後には神の審判が待っています。
天国か地獄か・・・。
神は裁き主です。
これが命の真実なのです。
「 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、
人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、
神はわたしたちにお命じになったのです。」
(新約聖書・使徒行伝・使途の働き・10章42節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 27 September 2011.