アットホームとグローバル・スタンダード



聖書・バイブルは、間違いなく世界標準、
グローバル・スタンダードを歌っています。
明確な、グランド・デザインが描かれているからです。
世界標準を実現することを主張しているのです。

「 それから、イエスは言われた。
全世界に行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 (新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)

しかしながら、この日本では、
アットホームを売り物にしているキリスト教の教会は多いものです。

日本のプロテスタントの教会が、
・・・アットホームを売りものにしている理由は、
日本は特別だから・・・と言われる教職者もおられます。

キリスト教の信仰に限らず、
舞踊やダンスやバレーやピアノなど、
日本のさまざまな芸術や芸能であっても同じです。
カルチャーであり、お稽古であり、発表会なのです。
言い方を変えれば、アットホームそのものです。
日本だけにしか通用しない格式なのです。
決して世界を標準に、
世界にターゲットを合わせているものではありません。
あくまでローカルなのです。

アットホームな教会は、
自分たちの事情からキリスト教を語ろうとします。
しかし、聖書・バイブルが語るのは、
アットホームではなくグローバル・スタンダードそのものです。
キリスト教は、聖書に忠実ならば、
ローカルではなくグランドデザインを語られなければならないのです。

日本は特別だとする考えは、
自分たちを置いている環境すべてがアットホームだからです。
経済や教育や医療や美術や芸術や芸能や音楽にいたるまで、
すべてがアットホームであり内向きなのです。
決して世界がターゲットではないのです。
すべてが外を向かずに内向きにセットされているからなのです。
世界標準の中の日本ではありません。

物にあふれかえった暮らしむき、
いたるところにカルチャーはあります。
豊か過ぎて見逃しているものがあるのです。
物質的にあふれるばかりの社会は、
実は、それらは偽りの豊かさの風景であって、
人間としての原風景を忘れ去っているとは気付いていないのです。

私たちは、人間としての原風景を忘れ去っているのです。

キリスト教の信仰は古くからの伝統的なもので、
だから守るものだ・・・・・ではなく。
経済や教育や医療などの地域社会を活性化する働きをする・・・とか言うものでもなく。
信仰は、暮らしに根差し日常に埋もれているものだと言うのではなく。
信仰は、自らが作るものでもなく。

キリスト教の教会は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を。
イエス・キリストの生と死と葬りと復活において備えられた救いというものを・・・
・・・解き明かさなければならないのです。


教会の説教は、
人間の事情から語られるのではなく、
神の究極の決断と態度の決定という、
神の啓示が語られるところなのです。

仮にも、神の啓示が語られない教会があるとしたら、
それは、本来あるべきキリスト教の教会の姿ではないかもしれません。

私たちは、
本物・本質的なものを忘れ、
見逃しているのかもしれません。
キリスト教の信仰は、
人間の原点であり本質であり、
行き着くところなのです。


北白川 スー

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Wrote up on May 03, 2013.