主の祈り・試みに会わせないで
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・・私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。・・
日本の一般的な社会では、神仏は善なる者の味方だと考えます。
だから、神なのにどうして・・・と思うのです。
多くの場合、試みにあえば、私たちは悪へと流れてしまいます。
悪と思わなくても、自分にとって楽な方へ行くものです。
いや、苦しみや悩みが増し加わるかもしれません。
それほど私たちは愚かで弱い存在なのです。
私たちの本性的な、
生まれながらに負っている性質がそうさせるのです。
しかし、人はそのようには考えません。
自分は、正しい存在なのに、なぜに悪へと引き落とされるのか・・・、
神はどうして試練に合わせるのかと。
神なのにどうしてと思うものなのです。
神は正しい者を救うものだと・・・。
「では、どうなのか。
わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9〜12節・新共同訳聖書)
・・義人はいない、ひとりもいない・・
聖書・バイブルは、すべての人は罪の中にあると示します。
罪の中にあるということは、
私たちは常に試みの中にあると言っていいのです。
試みられるのは主なる神です。
心の中を、心の程度を見られるのは神なのです。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、
何か思いがけないことが生じたかのように、
驚き怪しんではなりません。
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。
それは、キリストの栄光が現れるときにも、
喜びに満ちあふれるためです。」
(新約聖書・ペテロの第1の手紙・4章12〜13節・新共同訳聖書)
決して、善なる存在だから試みに会わせないでと祈るものではないのです。
罪人だからこそ、主なる神に祈らなければならないのです。
試みに会わせないでくださいと。
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、
あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。
肉に苦しみを受けた者は、
罪とのかかわりを絶った者なのです。」
(新約聖書・ペテロの第1の手紙・4章1節・新共同訳聖書)
キリスト教の信仰を持つということは、
キリスト・イエスを、自分の主とし、
聞き従うべき対象とすることです。
私たちの思いや言葉や行為行動といったものはすべて、
正しいものではないからです。
北白川 スー
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Wrote up on August 29, 2014.