この日本、どうしてキリストが広まらないのか
イエス・キリストが十字架にはりつけになってから2000年。
日本にキリストの教えを広めようとする人間的な努力が始まってすでに460年が過ぎてしまった。
しかしこの日本はいまだにクリスチャン人口は、
1億2500万人のうちのわずか1パーセント未満と言われている。
信頼できる統計調査によれば6〜7パーセント・・・・。
その数字が物語っているのは、かつては礼拝に通っていたものの教会から離れてしまったり、教会に属さない自称クリスチャンも含まれている。
日曜日の礼拝に集まるクリスチャンともなれば、もっと少なくわずか0,3パーセントと見られ、日本全国で40万人にはとどかないのです。
これはおどろくべき数字なのです。
ここにあげた数字は、
キリストの教えが、聖書・バイブルの価値観が、
広く一般の理解や共感を得られるものとして、
広く社会に行きわたり、
どんな問題であっても、
それがビジネスであれ、地域社会であれ、人間関係であれ、家族関係であれ、
すべてのものに、共有され通用するものとして受け止められていない証拠なのです。
現代の日本では、何事においても、
人の知恵や力によって、あらゆる問題は解決できると信じています。
安らぎは異性にあると・・・・・。
また、そうあるべきだと・・・・・・。
しかし、聖書・バイブルが伝える物語は、
何ごとも、人の知恵や力ではなく、
” 神・キリストが私たちの心の深いところを取り扱うことによって、
人生の希望や幸せや豊かさというものが与えられると、
イエス・キリストの十字架の出来事を通して教えているのです。 ”
しかしながら、このイエス・キリストの出来事が、
一般の人たちに、おどろくべきニュースとして伝えられず届いてはいないのです。
現実に、この日本での教会にたいする理解というものを見れば、
教会にたいする一般的な見方と言えばいいでしょうか。
教会とは、カウンセラーであり、グループ・セッションであり、奉仕活動なのです。
また、心を病んでいたり、現代社会の中で傷ついてしまった人たちをケアするところとしての役目や機能を持っていると見ています。
教会自身に問題がないわけでもない、
社会の荒波にもまれ疲れきって教会にたどり着いた人にたいして、
教会はすすめます・・・・・。
あなたが仕える神は、あなたを用いたいと望んでおられる。
だから、重荷をおろして神に仕えなさいと・・・・・・。
重荷をおろすどころか、問題はいまだに解決せず、
疲れきっているのに、どうすれば仕えることができると言うのでしょうか。
キリストの福音とは、そういうことなのでしょうか。
たしかにキリストは、重荷をおろすようにすすめています。
しかし、その重荷の何たるかを知らなければ下ろすことなどできないでしょう。
負わなくてもよい重荷を負っているとしたら。
また、負わなくてもよい重荷にしがみついているとしたら。
その重荷の正体を明らかにしなければ、おろすことも手放すこともできません。
だから、イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事が解き明かされなければ、
その重荷の正体を知ることなどできないのです。
人の知恵や力によって、あらゆる問題は解決できると信じていることこそ、重荷を生み出す温床なのです。
重荷から抜け出そうとして、またまた自分の知恵に力に頼ろうとすれば、さらなる深みにはまり込み、身動きできないようになってしまうのです。
イエス・キリストは言われる。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
キリストへの信頼は、
人生のすべてのものの土台になるものなのです。
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事の内容と意味とに耳をかたむけよ・・・・・・と。
北白川 スー
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Wrote up: 17 August 2009.