キリスト教文化と、宗教としてのキリスト教


 チャペル・ウエディングであったり、

 色とりどりのりイルミネーションで飾られたクリスマス、

 プレゼント交換のクリスマスであったり、

 形だけのキリスト教文化の装いの中に、

 その場その時その中にいても、

 その後に待っているのは空虚感・むなしさだけなのです。

 見せかけの形だけで実質的な価値や内容がともなわないから、

 実体がないから、

 その後も持続して心を満たすものは生まれてはこないのです。

 自分たちにとって都合のいい文化様式を好んで取り入れても、

 その文化の元となっている理念については知ろうとはしない。

 教会の結婚式であれ、クリスマスであれ、

 何を最高のものとするかについての根本的な考え方は明確に存在していても、

 こと日本では、外から見た様式のみ取り入れているにすぎないのです。

 キリスト教的な、チャペル・ウエディングあれ、クリスマスであれ、

 どのようなキリスト教文化であれ、

 すべて・・・・。

 生きる意味と言っていいもの、

 キリスト教は、イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活という出来事を通して、

 イエス・キリストは、自らの命をかけて、私たちに生きる意味を教えてくださったのです。

 ” 死後への備え ” としての現在、今日も明日もどのように生きていくのかという答えを、答えてくださっているのです。

 仮にもイエス・キリストの教会で、イエス・キリストの十字架の出来事が語られないなら、

 死と葬りと復活という出来事の内容と意味とが語られないなら、

 私たちが現実に生きるという意味を、教会が私たちに伝えたことにはならないのです。


 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、

 まだ見ていない事実を確認することである。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、

 したがって、見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、

 悟るのである。」

 (新約聖書・ヘブライ人への手紙・11章1・3節・口語訳聖書)


 私たちが知らなければならない事柄があります。

 しかし、日本の多くの人たちはそれを知りません。

 それを、イエス・キリストの十字架の出来事を通して知ることができるのです。

 そのようにして初めて、キリスト教信仰というものが生まれ育ってくるのです。

 この世界を造られた神の存在であり、

 その神と、私たち人間との関係をなのです。

 私たちの義ではなく、

 神の義についてなのです。

 私たちの心が魂が、

 あまりにも神から遠く離れ去っているため、

 今、私たちが経験しているさまざまな不安や痛みや悲しみや苦しみなどが引き起こされてくるのです。


 「神は、そのひとり子をお与えになったほど、世を愛された。

 ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 18 June 2009.