即洗礼・・洗礼への決心
ネットで小論を書き続けていますと、実に多くの方から ” 洗礼 ”についての便りをいただきます。
なかなか決心がつきません・・・と。
キリストに出会い、教会の礼拝に行くようになり、
イエス・キリストを信じるようになったのだけど、
それなりにクリスチャン・ライフを送ってはいるのだけど、
なかなか洗礼を受ける決心がつかないのだと・・・・。
また受けても、その実感がないと・・・・。
洗礼・バプテスマ・について聖書はどのように描いているのかと見れば、
信じたら即洗礼を授けているのです。
洗礼を受ける決心がどうのこうのではなく、
信じたら即洗礼を授けているのです。
信じたら即洗礼なのです。
それが聖書的な原則です。
しかしながら、
こと日本の教会となれば、
洗礼のための学びのために、
たっぷりと時間をかけてから、
さらに洗礼を受けることへの決心を確かめてから洗礼を授けるというのが一般的です。
もともと洗礼・バプテスマとは、ユダヤ人のおこなった、改宗者へのユダヤ教への入会の儀式だったのです。
新約聖書に描かれているバプテスマのヨハネは、
神の国の到来をむかえるために、ユダヤ人であれ、他の民族であれ、その区別なく、
” 悔い改め ”と、” 罪の赦し”を得させるために、
全身を水の中に沈める全身浴によって洗礼を授けたのです。
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストにも洗礼を授けています。
イエス・キリストは、十字架にかけられ死刑となり、
葬られ、三日の後に復活します。
イエス・キリストは、復活の後・・・、
イエスの弟子たちに、すべての人々に「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けて弟子にするようにと命じます。
洗礼とは、受けるものなのでしょうか、
それとも授けられるものなのか・・・・。
聖書には、多くの洗礼の場面の描写が生き生きと描かれています。
ペテロは語っています。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、
いったいだれが、水をさし止めて、
この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
(新約聖書・使徒の働き・10章47節・新改訳聖書)
人の心に働きかけて教会に歩を進めさせたのは、
私たちの心に働きかけて志を立てさせるのも、
教会に行くように心を動かせたのも、
イエス・キリストに出会わせたのも、
まさしく聖霊なる神の働きなのです。
少し飛躍しましたが・・・・、
信じたら即洗礼を授けてもらう・・・・、
それが自然な形だと聖書は描いているのです。
どうも日本の教会は仰々しくていけません。
見た目や、することが大げさなのかもしれません。
たしかにこの洗礼という儀式の中に、
キリスト教の根幹をなすものが含まれているわけですから。
つまり、イエス・キリストを体現することですから。
古きは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです。
昨日ではなく明日なのです。
北白川 スー
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Wrote up: 31 January 2010.