なぐさめの言葉を与えることが


 教会が、弱さを覚えている人にたいして、なぐさめの言葉やはげましの言葉を与えることに批判的な論調を書いていますと、

 自分の生き方に不安を覚えている人や、

 弱さを訴えている人に、なぐさめの言葉や、はげましの言葉を与えることが、なぜに悪いのかと、

 よくおしかりをいただきます。

 人は、自分の生き方にたいして、肯定的な扱いを、また言葉を人は期待するものです。

 しかし、

 自分の弱さにしがみつこうとする姿勢も、また罪深さのあらわれなのです。

 そこから抜け出すことをためらわせているのも、罪深さのあらわれなのです。

 しかし日本の教会では、そのようには捉えられてはいないのです。

 自分の弱さに悩み、混乱し、

 他人より劣っているのではないかという不安が常につきまとっている場合・・、

 なぐさめやはげましの言葉を得たいと期待する姿勢もそうです。

 自分の弱さから抜け出させまいとする何ものかが働いているのです。

 不安におとしいれようとするものが働いているのです。

 しかし、

 イエス・キリストは、そこから抜け出すようにと・・、

 そのためにも十字架に命をささげられたのです。

 人の弱さにしつこくつきまとって訴えてくる何ものかを、

 イエス・キリストは、十字架の死による贖い(あがない)の出来事によって、その力をもってしりぞけられたのです。

 イエス・キリストの内に入るようにと・・・。

 イエス・キリストは、私たちの罪のために、

 十字架にかけられ罪人として処刑されました。

 つまり、私たち人間に代わって神の審判を受けられたのです。

 本来なら、私たち人間が審判を、裁きを受けなければならないのです。

 イエス・キリストを信じるということは、

 その ”十字架の死による贖いのわざ ”を信じることです。

 そうしてこそ、イエス・キリストから来る恵みの中に入ることができるのです。

 自分に代わって、すべての負い目を取り除いてくださったイエスに信頼をよせる・・・・・。 

 救いはイエス・キリストから来るのです。

 私たちは、だれひとりの例外もなく罪人です。

 自分の心の中にある、弱さの中に浸っていることは罪のあらわれです。

 そこから抜け出す意思を持つこと、

 抜け出す決意をすること・・・・。

 それがこそがイエス・キリストの十字架に向き合う姿勢なのです。

 はげましの言葉を与えることよりも、

 私たち人間の主権者としてのイエス・キリストを明らかにすることのほうが、

 はげましの言葉を与えることよりも、はるかに大きく高いことではないでしょうか。


 イエスは、また人々に語ってこう言われた、

 「わたしは世の光である。

 わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、

 命の光をもつであろう」。

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 31 March 2010.