どうすれば神を知ることができるのか、
信仰と弱さと愚かさ、


 信仰というものは、愚かさ弱さを身に負っている者が、

 信仰を通して救いを願い求めるものであるなら・・・。

 信仰というものが、自分の愚かさ弱さを知った上で、

 この上なくすぐれていて、すべてのものの上位に位置するものとして、

 絶対的な存在である神にたいして、

 おそれうやまうという思いを抱くということの上に築かれなければ、成り立たないのではないでしょうか。

 自分の弱さ愚かさに気づかない場合は・・・、

 それは、救いへの道のりは遠いものになるはずです。

 人間の弱さ愚かさを示すものとして、

 また、人間の弱さを愚かさを、人間に見出させるものとして、

 そこに神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖い (あがない) の出来事があらわされているのです。

 至高の存在としての、

 神が存在しているという証拠がイエス・キリストの十字架の出来事なら、

 キリストが人間の愚かさ弱さをその身に負い、

 罪人として死刑になるキリストが描き出されなくては、

 人は自分の愚かさ弱さには気づかないことでしょう。

 それほど人間は愚かな存在なのです。


 「 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる・・・、」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・5章2節・口語訳聖書)


 どうすれば神を知ることができるのでしょぅか、

 どうすれば生き生きとした信仰を身につけることができるのでしょぅか。

 この世界を造られた神のひとり子であるイエス・キリストがこの世界に来られたということは、

 私たちは、私たちを造られた神との関係を断たれている、

 神と切り離されていると考えていいのです。

 人間が神に負っている罪の結果としてのへだたりなのです。

 だから、私たち人間の創造主としての、父なる神は、

 神ご自身と、私たちとの関係の架け橋として、

 人間と神との間に深く広がるへだたりの架け橋として、

 神のひとり子イエス・キリストを、

 この世界に生まれ来させになったのです。

 そして、人として、私たち人間が負っている神にたいする罪を、

 その身に負い、

 私たちの罪の代価を支払うために(贖うために)、

 十字架にかかり、命をその代価として差し出され死なれたのです。

 私たち人間は、生まれながら負うている、

 愚かさ弱さのために、

 自分の力で救いを買い取ることも、

 自分の力で得ることもできないのですから。

 福音とは、

 イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることの他のなにものでもありません。


北白川 スー

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Wrote up: 14 February 2010.