信仰について
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さまざまな信仰が存在している、
いや、混在しあっている日本にあって、
まことの信仰とは異質なものが混じりあっている日本にあって・・・、
色々な信仰が存在していることのほうが、
人間的で正しい姿だと言う人の多い日本にあって。
しかし、その信仰が、
人間の共同体の秩序を守るための役割を果たしていることに気づいていない人たちのほうが多い日本にあって、
共同体の秩序の維持のためだけではなく、
経済や教育や医療にいたるまで、
家庭生活や社会生活の全体にわたって、
密接に影響し、力を持っていることに気づいていない日本にあって、
クリスチャンであっても例外ではありません。
気づいていないでしょう。
では、信仰とは何かと考えれば、
人生を支え、人生のすべての土台になるもの、
それが信仰なのです。
さらには、希望と成功に導くものであって、
報いある人生を送るためのものなのです。
キリスト教の信仰であるなら、
クリスチャンとしての人生を送ることによって、
自分にはね返ってくるもの、
築きあけられたものがあるということなのです。
この日本では、一般的にキリスト教の信仰は、
消極的で個人的なもののようにとらえられていますが、
決してそうではありません。
キリスト教の信仰は、実に積極的で、
楽天的で、機能的なものなのです。
それは私生活においてもビジネスの現場においてもです。
信仰は、暮らしに安定と希望を生み出し、
ビジネスにおいては、成功と発展と拡大を意味しているのです。
信仰によって結果が生み出されるのです。
しかし残念ながら、
この日本では、そのようには語られません。
信仰とは何でしょうか、
過去に生きることなのでしようか、
それとも明日に向かって生きることなのでしょうか。
当然のこととして明日に向かって生きる、
それこそが信仰なのです。
しかし、こと日本のキリスト教の教会では、
どのように信仰すればいいのか・・・・、
信仰のハウツウが常に語られる日本なのです。
過去を断ち切った新しい生の上に生きるではなく、
過去を引きずった、現状維持・・、
その上でのハウツウなのです。
「 だれでもキリストにあるならば、
その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、
見よ、すべてが新しくなったのである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・口語訳聖書)
問題なのは、
信仰に召されるということは、
神によって呼び出されるということは、
クリスチャンとしての新たな使命のはずです。
しかし、日本ではそのようになってはいません。
常に、どのように信仰すればいいのか・・・ということが問題とされるのです。
罪人であるというこは、
今に問題があることを意味し、
神に背いた罪人は、信頼すべき存在を失い、
人生にとって最も大切な指針、
聞き従うものさえ失ってしまったのです。
神に背いたことにより、
楽園から追放され、
本来あるべきところから堕落してしまったのです。
現実にある人間の姿を聖書・バイブルは描き出します。
そのうえ、ほんらいあるべき人間の姿を示しているのです。
人間を創造された神から離れてしまった人間たち・・・。
キリスト教が言おうとしている信仰とは、
私たち人間がとらえられている縄目からの解放と、
新しい世界で、
新しい命に生きるこを目指しているのです。
決して、宗教的な救いだけがキリスト教の信仰ではありません。
神にたいして現世的な救いを求めることだけがキリスト教の信仰ではありません。
「 このようなわけで、ひとりの人によって、
罪がこの世にはいり、
また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、
死が全人類にはいり込んだのである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章12節・口語訳聖書)
「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、
神の栄光を受けられなくなっており、」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 17 July 2011.