罪が支払う報酬は死です
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キリスト教では、罪と死とは深い関係にあるテーマとして、
信仰を成り立たせているもっとも大切な働きをするものとして考えます。
最初の人間アダムが創造主に背いた結果、
人間の生に死が入ってきました。
創造主に背くという罪の結果です。
イエス・キリストは、すべての人間の罪をその身に負い、
十字架刑により死して、その罪を贖って(あがなって)くださいました。
人間最初の罪の代価を命をささげることによって支払ってくださったのです。
つまりイエスは、私たちの罪にたいして死んでくださったのです。
この二つの出来事は、密接に関係しあったものであり、
まぎれもなく神の裁きの結果なのです。
さて、ことは創造の初めにさかのぼります。
創造主なる神はこの世界を創造されたとき、
あわせて人間をも創造されました。
しかし最初の人間であるアダムが神の命に背きます。
取って食べると死ぬといけないから取って食べてはいけないと、
命じられていた禁断の果実を取って食べてしまいます。
エデンの園には、命の木と、善悪の知識の木とが生えていました。
神に背き善悪の知識の木から取って食べたため、
人間は善悪を知るようになったのです。
しかし、善悪の判断は神の主権なのです。
当然にして神の怒りを受けます。
命の木からも取って食べて永遠に生きないようにと、
楽園を追放されることになります。
創造の初めは、人間には永遠の命が与えられていたのです。
しかし、神に背いたことにより、
人間の生に死が入ってきたのです。
その時から、人間の歴史が始まることになります。
この出来事が最初の ”罪の支払う報酬は死 ”なのです。
それいらい人間は顔に汗して糧を得なければならなくなりました。
さらに、死の恐怖までもが人を苦しめることになります。
さて、このように創造主なる神に背き、
罪を負い地上をさ迷い歩かなければならなくなった人間を、
神は、そのまま放置されたわけではありません。
作者である神は作品を手放されたわけではありません。
その後、神は、事あるごとに神の愛を示されていきます。
しかし、罪に落ちた人間は、
創造主なる神に、事あるごとに背き、
父なる神を知ろうとはしないのです。
結果は、創造主なる神の怒りの下で生き続けることになります。
人間は、望みもなく、永遠に失われた状態のままなのです。
そこで神は究極の決断と態度の決定をされることになります。
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事がそれなのです。
まさしく神の裁きであり神の愛の出来事なのです。
すなわち、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
創造主なる神が、ご自身のひとり子、
イエス・キリストの生と死と復活において、
被造物であるところの人間にたいする救いを備えられたのです。
創造主なる神にたいする罪の赦しと、
罪深さからの解放という、
創造主なる神の前で正しい者として立つことのできる方法を示されたのです。
それが神の啓示、すなわちイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
「 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章18節・口語訳聖書)
イエスが十字架に死ぬという出来事は、
神は、愛するわが子に怒りの刃を下されることにより、
私たちの知るところとされたのです。
罪を贖うには死しか方法がないことを・・・・。
「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、
なだめの供え物として、公にお示しになりました。
それは、ご自身の義を現わすためです。
というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜25節・新改訳聖書)
本来なら、罪を犯した私たち人間が罰せらるところなのですが、
当然にして、罪にたいする罰は用意されています。
それが最後の審判のとき、
生きている人も、かつて生きていた人も、
神の裁きの座に立たなければなりません。
しかし、すでに、その裁きを受けてくださったイエス・キリストを信じる信仰によって、
神の前で正しい者とされた者は、
その例外となります。
それが信仰による義なのです。
イエス・キリストによって保証された、
復活への約束という希望により、
死の恐怖はなくなるのです。
復活のイエス・キリストにたいする信仰により、
永遠の命に移されるという希望が与えられるのです。
死んでしまった者は、罪からは解き放たれるからです。
イエス・キリストが代わりに死んでくださったからです。
「 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章10〜11節・新共同訳聖書)
苦しい罪の中を歩むことを選ぶのか、
それとも、罪にたいしては死んで、
永遠の命という希望に生きるのか・・・・。
さて、どちらを選びますか。
イエス・キリストは、罪にたいして死んでくださったことを忘れないでください。
それがイエスの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の真理なのです。
神に背き罪を得た人間には、
その罪を死に渡すことによって罪から解放されるしか方法はありません。
それがイエス・キリストへの信仰なのです。
「 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・4章25節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 24 September 2011.