罪という言葉から何を思い浮かべるのか
「救い」について語ろうとするなら、”人間の本質的な本来的な罪深さ ”というものを明らかにしなければ、”何から救われなければならないのか ”が明らかにはならないのではないだろうか。
私たちが「罪」という言葉から何を思い浮かべるかといえば、
私たちがときどき犯す過ちではないだろうか。
犯罪や、交通違反や、ルールや規律や法律に反することをした場合であろう。
また、不道徳だとされる行いのことではないだろうか。
言い換えれば、わたしたちがときどき罪を犯すから罪深いということになるのだろうか・・・。
聖書・バイブルは、そうではなく、
ときどき罪を犯すから罪深いのではなく、
もとから、つねに罪深い存在だと言っているのです。
それを「原罪」と言います。
罪とは、”原罪が表にあらわれた姿 ”に過ぎないのです。
生まれながらに背負っている罪深さが、
私たち自身の中に、最初からあるものが、
私たちの思いや言葉や行為となって現実的な罪を犯すのです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙7章15〜24節・新共同訳)
現実を見わたせば、人間の罪深さというものを、
私たちはいやというほど見せつけられているのではないでしょうか。
自分自身の罪深さというものを、
気付こうともしないし、さとろうともしないのが人間の姿そのものなのかもしれません。
だれが、この罪深いわたしを救ってくれるのだろうか・・・・。
この世界を造られた創造主なる神・私たち人類をも造られた神と、
神の作品としての私たちとの関係を考えたうえで、
人間は、なぜ、かくも罪深くなったのかということと、
それにたいして、イエス・キリストの十字架の死による”あがない ”という出来事との、
原因と結果ということを理解しなければ、
「救い」というテーマが、
それが何であるかを正しく理解することはできないでしょう。
私たち人間は、父なる神に負っている負債と、
神にたいする敵意と、
神の律法にたいする違反、
神の聖・きよさ・というものの権威をけがし傷つけた罪ということを・・・。
そのような人間から救いだされなければならないのです。
父なる神と、私たちとの間の壊れた関係を、元通りにしなければならないのです。
だからこそ、父なる神は、そのひとり子イエスを十字架につけ、
その命をもって、私たちの罪をあがなおうとされたのです。
北白川 スー
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Wrote up: 08 April 2008.