教会の外にある人たちに


 教会の外にある人たちの、

 キリスト教に関心があるわけでもなく、ないわけでもなく、

 私には教会は無関係なものなのだという感覚にたいして、

 その感覚を揺り動かすことのできるものとして、

 その感覚にインパクトを与えることのできるものとして、

 聖書が分からなくてはキリスト教が分からないというのではなく、

 その出来事を聞いて、心に感動を与えることのできるものとして、

 キリスト教の教会に目をやり、内なる関心をふくらませることのできるものとして、

 ショッキングなテーマかもしれませんが、

 避けては通れないテーマとして、

 ” だれひとりの例外もなく、すべての人は罪人なのだ ”という。

 罪深く、罪に染まり、罪深いゆえに人生をさ迷い歩いているのだという、

 きびしい現実から・・・。

 だから、その罪深さから救い出すために・・・。

 さ迷える人生を、リードしガイドするためにも・・・。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事が、

 私たちの罪をその身に負って、罪の代価を命をささげることによって支払ったという・・・。

 解き明かされ、説き明かされるなら・・・・。

 しかし・・・・、

 なぜ、私たちの人生とイエス・キリストの死とが関係あるのかと疑問に思われることでしょう。きっと。

 2000年前の出来事ですが、

 イエス・キリストの生と死と復活において、

 私たちの救いというものが備えられているのだという・・・。

 なんとも理解しがたいテーマですが。

 仮にも、”人間の罪性 ”というテーマが語られなければ、

 それも、生まれながらに負っている罪について、

 本性的な罪深さが、

 すなわち ”原罪 ”について語られなければ・・・・。

 そして、その罪からの赦し・・・

 その罪からの解放というテーマが語られなければ、

 神の前で正しい者として立つことなど、

 ・・それがキリスト教の言う救いの本質なのですが・・、

 どんな方法や手段を尽しても実現することなどできっこない。

 この世界を造られ、私たち人間をも造られた神が、

 混乱と混沌の中をさ迷い歩いている私たち人間を愛するがゆえに、

 そのひとり子イエス・キリストの生と死と復活において、

 救いの道を備えてくださったという、

 おどろくべきき出来事が語られなければ・・・・。

 罪についても理解できないし、

 私たちの救いというものもはありえないのです。

 それが、イエス・キリストが十字架にはりつけられ、

 罪人として処刑され、葬られ、

 三日の後に死人のうちから復活したという出来事なのです。


 「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

 それは御子を信じる者が、

 ひとりとして滅びることなく、

 永遠のいのちを持つためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)


 イエス・キリストの十字架の出来事が語られて初めて、

 私たち人間は、滅びへと向かってひた走っていることが明らかとなり・・・、

 救いへの道も明らかとなるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 26 November 2009.