何かが欠けていると感じる
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この日本でキリスト教の信仰を考えるとき、
常に何かが欠けていると感じる。
本質的なことが抜け落ちているように感じるのです。
それを聞いた人を圧倒的な喜びへと導くもの・・・。
生き生きとした活気の中に導くもの・・・。
教会の礼拝では活気が感じられず、
みな一様に打ちひしがれている・・・・としたら。
まるで、私は、不幸で不安でいっぱいです・・・といったように。
クリスチャンになるということはどういうことなのでしょうか。
クリスチャンになったということは、
神にある平安や幸せを、
神からいただいて歩む人生を選び取ったということではないのでしょうか。
そうであればこそ喜びをもって神を礼拝することができるのです。
私たちが経験する不安や落胆や混乱などは真実ではないことを知るからです。
このたびの東日本大震災にあたって、
教会は、あすへの希望を語っているのでしょうか。
キリストの教会は、
神が創造された創造物にたいする責任があるのです。
イエス・キリストは主であり、
救い主なのですから。
キリスト教の活動は、
それ自体がグローバルなものなのですから。
1・・「 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです。」
3・・「 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、
従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」
6・・「 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じていなければならないからです。」
(新約聖書・ヘブル人への手紙・11章・1、3、6節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 07 October 2011.