信仰者の立つ位置



信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャンになった者には、
立つべき立ち位置というものがあります。

クリスチャンなら、だれでもが経験する神秘的な経験として。
イエス・キリストから直接に声をかけられた者、
イエス・キリストが自分の前に現れた経験をした者、
何らかの状況で、イエス・キリストに出会った者がクリスチャンなのです。
イエス・キリストとの関わりの中に信仰は存在するのです。

多々あることは事実ですが、
イエス・キリストを抜きにした信仰の持ち方があるとしたら、
その信仰は、疑いをもって見なければならないでしょう。

信仰の対象から必然的に定められた立ち位置や出発点があり、
そこから始めなければならないのです。
信仰者がくり返しくり返しそれによって歩まなければならない、
守るべき法則と言っていいものがあります。

信仰ある者として立たなければならない、
位置や、事柄に従って歩むことを求めるのです。
その事柄とは何でしょうか。

信仰者が、信仰という態度を持っていることによって、
その態度に拠り所を持たず、
今の位置を守ろうとすることを止め、また捨てさり、
どのようして信仰を持つことになったかという個人的な理由を証しすることによって、
自らの立場を擁護することをせず・・・・。
証しを、自らの立場の拠り所とすることとせず・・・。

信仰の対象から必然的に定められた立ち位置や出発点があり、
そこから信仰を始めなければならないのです。

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章16〜17節・新共同訳聖書)

キリストの言葉とは、
まぎれもなくイエス・キリストの十字架の出来事をあらわしています。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事なのです。
すべての人間への救いの出来事なのです。

この出来事こそ、信仰の答えなのです。
この出来事によって、信仰者として目覚めさせられ、
信仰は、この出来事によって作られ、定められ、
信仰者の人生における全ての営みを通してのモチベーションとなるのです。

人間的な思いや行為や習慣などが、
もしも、キリストの十字架の出来事に答える以外のものであろうと欲するなら、
それは、空しく、無意味で、無益なものとなるでしょう。

キリストの十字架の出来事に拠り所を見出すか否かによって、
信仰は立ちもすれば倒れもします。


北白川 スー

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Wrote up on January 07, 2017.