仏像ブーム・・・・教会の責任は大きい


 仏教ブームと言われる今日このごろ・・・。

 神秘的な何ものかから力を得ようとしてか、

 阿修羅像に押し寄せる若者たち・・・・。

 「仏女」と呼ばれる仏像にひかれる若い女性たち・・・・。

 キリスト教の教会は、これらの現象にたいして、

 偶像崇拝だからダメなのだと言って、

 仏像に魅せられる女性たちを非難したり批判してはならないはずだ。

 いや、とがめることすらできないはずなのだ・・・・。

 そうではなく、教会の責任は大きいと言っていい。

 彼ら若者たちは、ただ仏像が好きなだけではない。

 この混乱した、安定しない世相の中で、

 孤独と息苦しさの中で・・・・・、

 行き場を求めて、居場所を求めて、

 宗教的なものに救いを求めているのかもしれないのだから。

 いや、生きる意味や、人生の答えが分からないからかもしれない。

 キリストの教会は、それらの若者たちにキリストの福音を示しているだろうか。

 教会がイエス・キリストの十字架の出来事によって光り輝いているなら、

 イエス・キリストの十字架刑による死、

 葬り、

 死人からの復活の出来事は、

 人間の生きる意味や、人生の答えを語っているではないか。

 若者たちが教会にひかれないのは、

 教会が人生の答えを語っていないからではないか・・・・・・。

 教会に魅力がないからではないか・・・・。

 昨今の仏像ブーム・・・・教会の責任は大きいのだ。

 イエス・キリストの十字架の出来事は、

 私たち人間の魂を心をひとしくいやしてくれるのではないのか。

 イエス・キリストの十字架の出来事は、

 宗教の束縛から自由にし、

 私たちにモチベーションを与え、

 行動の変化をもたらすのではないのか。


  【賛歌。ダビデの詩。】

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。

 あなたがわたしと共にいてくださる。

 あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

 わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

 主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

 (旧約聖書・詩篇23編1〜6節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 11 June 2009.