この日本、キリストへの信仰はなぜ広まらないのか


 おとなりの韓国では3人に1人が、13億の中国では1億人のクリスチャンいると言われています。

 しかし、この日本ではいまだに100人に1人いるかいないか、人口比にして1パーセント未満なのです。

 日本で広く見受けられるクリスマスやチャペルでの結婚式などのキリスト教的文化は、信仰ではなく今や宗教を超えた信仰とは別ものの国民的行事にさえなっています。

 なぜ日本では信仰としてのキリスト教が広まらないのでしょうか。

 筆者には、何が問題なのだろうかと、何か隠されている理由というものがあるのだろうかと、常に疑問符が脳裏に存在しています。


 キリスト教の布教の歴史はとても長いものがありますが、

 ” 福音の宣教 ”ともなれば、どうなのだろうかと。

 そうではないはずだと。

 宗教は歴史の流れに、また権力にほんろうされるものですが、信仰はそうではないはずだと。

 たしかにこの日本ではキリストへの信仰とは別世界のもののように、

 古来から根強くかかわり続けている霊的民俗が存在します。

 深く強く暮らしに根付いている冠婚葬祭の習しであってもそうなのです。

 何かにつけての宮参りや、誕生に学業に成人にと、そして、目的を同じくする家同志の結婚であったり、人は死をむかえれば葬儀であり、先祖を祭る先祖供養にいたるまで、霊的な民俗・暮らしの習慣が付きまとっています。

 実に日本的な習慣、生活上の様式なのです。

 それにたいしてキリスト教の信仰となれば、

 キリストへの信仰は、日本の霊的な民俗に相反する要素を持っているのです。

 とくに日本人は霊的なものにたいへん熱心です。

 豊かさであれ健康であれ人間関係であれ、

 もっぱら自分の利益のために熱心なのです。

 しかし、この世界を造られた神にたいする関心や興味と言ったものは無関心に限りなく近いのではないでしょうか。

 実に聖書・バイブル的ではありますが、

 人間が生まれながらに負っている罪深さ「原罪」というものと、

 イエス・キリストの十字架の出来事、イエスの死と葬りと復活という出来事について、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事について、

 つまり、私たちが生まれながらに負っている罪深さからの救いの出来事という、

 ” キリストの福音 ”を聞こうとはしない日本人の無関心さ、

 また語っているようで語ろうとはしないキリストの教会、

 それは、自分の罪深さを他のせいにする日本人の特有の性質なのかもしれないのです。

 何かの問題に直面しようものなら、それらを、

 自分自身がかかわり属している人間関係や会社や地域社会や社会の構造のせいにしてはいないでしょうか。

 自分自身の心を変えることの大切さを忘れた我々なのです。

 イエス・キリストの十字架の出来事への興味と関心こそ、

 神にたいする素朴な疑問と探究心こそが神に向かわせ神との関係を築かせるものなのです。

 あなたの心を変えるのはあなた自身なのですから。


 「 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、

  罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、

 ――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――

  キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

  こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、

 その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

  事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。

 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」

 (新約聖書・エペソの信徒へのパウロの手紙2章4〜8節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 14 January 2009.