人の人生は死ねば終わりか
日本の多くの人たちは、
あなたなら天国か地獄か、どちらを選びますかと問われても、
はっきりとした答えはかえってはこないでしょう。
それどころか、ばかげた質問だと問題にされないかもしれません。
それは、” 死ねば終わり ”という考えだからです。
死ねば、すべては終わりになるのです・・・。
しかし、
キリスト教は、人の人生は、死ねば終わりではなく、
人の人生は、死んでも終わらないと考えます。
死んでしまったなら、それですべてが終わりだとは考えません。
キリスト教の基本は、人は、生まれてきたのは偶然ではなく、
目的を持って生まれてきたと考えるからです。
私たち人間は、もともとこの世界を造られた創造主なる神によって、
素晴らしいものとして創造されたのです。
神の作品ということになります。
” 作品は、作者に栄光を帰す ”のが当然なのです。
現実の社会にあっても、
世の東西を問わず、
舞台であれ、美術であれ、文学であれ、
作品は、目的を持って生み出されるのです。
芸術作品は、その作者に栄光を帰すのが当たり前なのです。
私たち人間も同じです。
しかし、神の作品である人間が、
その神に背いたとしたら、
さらに、創造主なる神のことを忘れ去ってしまったなら、
作者に栄光を帰すために生み出された作品が、
その使命を、与えられた任務を、
どこかに置き忘れてきたとしたら・・・。
私たちは、だれしも充実した人生を送りたいと願うものです。
その充実した人生とは、
なりたい自分になりたいことだとしたら・・・。
作品は作者に栄光を帰すために生まれてきたはずなのに・・・。
「陶器が陶器師と争うように、
おのれを造った者と争う者はわざわいだ。
粘土は陶器師にむかって/『あなたは何を造るか』と言い、
あるいは『あなたの造った物には手がない』/と言うだろうか。」
(旧約聖書・エレミヤ書・45章9節・口語訳聖書)
「 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」
(旧約聖書・エレミヤ書・18章4節・新共同訳聖書)
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、
善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、
それぞれ報いを受けねばならないからである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)
神の裁きの基準は何でしょうか・・・・。
被造物としての人間は、
つまり神の作品としての人間は、
作者であるところの創造主なる神に栄光を帰したかどうかが判断の基準なのです。
最初の人間であるアダムが神に背いてからというもの、
あとに続く人間は、ことごとく、
父なる神へ栄光を帰すことをどこかへ置き忘れてきてしまった。
それが、父なる神にたいする被造物としての人間の大きな罪なのです。
しかし、作者の作品にたいする愛は計り知れないものです。
自分の手で壊すことはたやすいことでしょう。
しかし創造主なる神は、
壊すことをせず、救いの手を差し出されたのです。
神のひとり子イエス・キリストを ”人として ”この世界に生まれさせ、
あえて罪人として、私たちに代わって罪人として裁かれたのです。
この出来事こそ、イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざなのです・・・・。
このイエス・キリストの出来事を信じるか信じないかの違いが、
天国と地獄との分かれ目になるのです。
人生は死ねば終わりではなく、
最後の最後に、神の裁きが待っているのです。
自分にたいする裁きを前もってイエスが受けてくださったと信じるなら・・・。
それがイエス・キリストの十字架の出来事であるわけです。
神との和解は成立し、天国への道が約束されるです。
神との和解を受け入れない者は、
当然のこととして、待っているのは地獄です。
人の人生は、決して死ねば終わりではありません。
死んでも終わらないのです、続きがあるのです。
創造主なる神は、被造物である人間が、
つまり神の作品である人間が、
作者としての意思として、天国へ行くことを望んでおられます。
当然のことなのです。
ですから、神との和解を受け入れよと・・・。
天の御国が近づいたから、悔い改めよと・・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 28 June 2010.