人の心を支配する恐れという感情


 共同社会の中で、自分をとりまく人間関係の中で、

 自分のことが評価されないことへの恐れは・・・。

 人が人へ与える評価が得られないとき、

 それは、孤立感となって人の心を苦しめます。

 社会の中で自分にも存在の意味があるのだという肯定的な評価を得たいと。

 ではなぜ、教会がその求めに応じなければならないのでしょうか、

 それが救済なのでしょうか。

 それが、キリスト教が言うところの ” 救い "なのでしょうか。

 いいえ、それは違います。

 明確に言えます。

 聖書・バイブルから遠いと。

 教会こそ明らかにしなければならないテーマは、

 実は、自分自身の心の中にある恐れという感情が自分を縛り支配していることを明らかにしなければならないのです。

 そのためにも、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の、

 神のひとり子イエス・キリストの死と葬りと、

 三日の後に死人のうちから復活したという出来事の内容と意味とが解き明かされなければならないのです。

 教会がイエス・キリストの出来事を、

 すなわち神の啓示・福音を解き明かすなかで、

 社会に、人間関係にたいする恐れというものが、

 実は信仰とは正反対のものであり、

 主イエスに信頼することよりも、

 自分の心のままに従うことを優先していることを明らかにするのです。

 またそれが、試練だと、試みだと理解している人もいます。

 なぜ、わたしだけに、どうして苦しい問題に会わなければならないのか・・・。

 実は、それは、神を疑っているあらわれなのです。

 恐れや恐怖という感情が自分の心を支配しているとき・・・、

 それは、神の心が何であるかを、

 自分にたいする神の意思が何であるかを知ることを妨げているのです。

 ”イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を信じて ”クリスチャンになったのなら・・・・。

 つまり、イエス・キリストを信じて救われた者の人生には、

 神の手が差し伸べられているということです。

 その神の手をつかんでください。

 神の導き・ガイドに従ってください。

 それが、神の恵みです。

 神の贈り物なのです。


 「 彼はその欲望が示すとおりの人間だ。

 食べるがよい、飲むがよいと言っても、

 心はあなたを思ってはいない。」

 (旧約聖書・箴言・23章7節・新共同訳聖書)

 「 彼は、心のうちでは勘定ずくだから。

 あなたに、食え、飲め、と言っても、

 その心はあなたとともにない。」

 (旧約聖書・箴言・23章7節・新改訳聖書)


 人は、自分の心の行くところに従うものなのです。

 それが生まれながらに負っている罪深さのあらわれなのです。

 ただ単にイエス・キリストを信じてクリスチャンになったのなら、

 信じて受け入れたと信じているのなら、

 ぜひ、イエス・キリストの十字架の出来事について、

 詳しく聖書から学んでください。

 それが信仰です。


 「 実に、信仰は聞くことにより、

 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

   (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 07 August 2011.