福音の神・キリスト
-
-
人の思いが、自分は、他よりすぐれた存在だと思っても、
福音の神は、決して人の思いを優越させることはない。
決して、あなたは正しいとは言われない。
周りを見ることをせず、
自分の内に閉じこもることを許さないからです。
福音の神は、決して御利益信仰の神ではなことを忘れてはならない。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
(新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新共同訳聖書)
もしも、キリスト教の信仰によって、自分の思いや行動が、
制約され制限されることを嫌っているなら、
あなたの信仰は、孤独で、自分のからに閉じこもったものなのです。
「なぜなら、神の義を知らず、
自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章3節・新共同訳聖書)
神は神、自分は自分と、
神と自分とを、ひとしい関係に置こうとするなら、
自分の思いは正しいと、自分自身に満ち足りているなら、
福音の神は、きびしい態度であなたに迫られるだろう。
しかし、あなたは気づかない。
崖っぷちに立たされるまで気づくことはないだろう。
福音の神は、
あなたに自由を与えようとされいることを忘れてはならない。
囚われからの解放、呪縛からの解放を。
人は、自分が何ものかに囚われているとは思いもしないのだから。
福音の神が、人間のために、人間の救いのために、
その身を十字架にささげられたにもかかわらず。
福音の神は、人間の上にというわけではない。
人間と並んでということでもない。
福音の神は、何よりも人間のために神でいてくださるのだ。
人間の友なる存在として。
しかし、気づいている人は少ない。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
『わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の心を生かすためである。』」
(旧約聖書・イザヤ書・57章15節・新改訳聖書)
信仰とは、いったい何なのでしょうか。
福音の神ご自身が、人間の友となってくださって、
ご自身を知らしめてくださった、
ご自身の生と死と葬りと復活という出来事にたいして、
信仰者自らの持てる能力のすべてを傾けて、
何事においても休まずたゆまず答えることなのです。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
su-kitashirakawa Official Website
Wrote up on January 05, 2017.