多くの人は、キリスト教を誤解している


 日本の多くの人たちは、ずいぶんとキリスト教というものを誤解しています。

 私には関係のない所だと・・・。

 私は弱くないし、心も病んでない、だから教会にやっかいにならなくてもやって行けるからと・・・・。

 暑い日でも寒い日でも、あんなに熱心に戸別訪問をやっている訳が分からない、

 ああはなりたくはない・・・。

 教会の外側から見れば、個性的なところだけが見えて、クリスチャンや教会のイメージがかたよって見えてしまうのでしょう。

 見た目だけで、キリスト教の理念が、根本的な考えが、正しく伝わっていないと考えていいでしょう。

 キリスト教の教会は、同じ趣味や意志や確信といったものによって、

 人を教会に集めているのでもありませんし、行動しているのではありません。

 それらの人の意図や計画によって、教会が建てられ管理され、人を集めているのでもありません。


 キリスト教の教会は、”神の啓示 ”によって、

 またその ”啓示を聞く”ということによって、

 神が、この世界を造られた神が、

 ”私たち人間に語られている言葉を”、

 権威ある言葉を、聞くということによってのみ、

 神が人間に語られていることを聞くという、このひとつのことによって、

 基礎づけられ、支えられ、この世界に存在しているのです。

 決して、人間の救いの方法や、

 救いの施設や装置などと同じ線上に存在するものではないのです。

 神の教会は、”神の恵み ”を受け取り、

 その恵みにたいして、私たち人間が応え、また敬意を示すことのみのために、この世界に建っているのです。


 この世界を造られた神の、人間にたいする究極の決断として、

 人となられた神が人間のところに来られたいう出来事によって教会は存在しているのです。

 決して、人間同士の好みや趣味や確信といったものによって、

 人を教会に集め、教会が保たれているのでもありません。


 神のひとり子イエスが、人としてこの世界に来られて、

 私たちのすべての罪を、神にたいする罪を、

 その身に背負い、あざれられ、はずかしめられ、苦しめられ、

 差し通されて、死をもって、

 私たちの罪の代価を命をもって支払われたという出来事を、

 語り伝えているのです。


 なんだか別世界の話しのように聞こえますが、

 私たちの現状・私たちのありのままの姿を、

 現実のものとしての私たちの姿というもの、

 見通しの立たない、混乱と混沌とに満ちた、私たちの姿を、

 すでに、聖書・バイブルは、

 それらのことがまだ起こらない先に、すでに明らかにしているのです。

 私たちの本性としての罪深さがそうさせるのだと・・・・。

 私たちが罪の体質にある以上、混沌と混乱はさけられません。

 だから救いが必要なのです。


 自分は弱くもないし心は病んでないと思っておられる方は、

 実は、心の奥底は罪深さで満ちていることを知らないだけなのです。

 キリスト教は、人間の罪深さを明らかにしますし、

 またそこからの救いをも・つまり明日への希望をも明きらかにするのです。

 この世界を造られた神のひとり子であるイエス・キリストと、

 イエス・キリストが十字架刑による死によって、

 私たちの罪の代価を支払われたという、”あがない”の出来事について、

 この世界を造られた神との和解という出来事を明らかにするのです。


 ひとりひとりを含めた私たちのこの世界は、

 実にさまざまな問題を抱えているわけです。

 その原因と解決の方向を指し示しているのが・・・。

 この世界を造られた神の言葉を聞かず、

 聞かないことによって、私たちに混沌と混乱は生まれ。

 その神の言葉に聞き従うことによって、平安と希望が明きらかとなるのです。


 「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、

 あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。

 福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

 (新約聖書・コロサイの信徒へのパウロの手紙・1章6節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 26 June 2008.