イエス・キリストの十字架の出来事へ意識を向ける
キリスト教の信仰というものは、イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事に・・・、
思いをはせ、思いをめぐらし、その出来事を心に留め置き、よくよく考えること・・・、
決して、十字架そのものに、また十字架にキリストがはりつけになっている、人間の手によって作られた造形作品を礼拝するものではありません。
ですから、教会の礼拝においてキリストの十字架の出来事・・・、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざ・・・、
その内容と意味とがくりかえしくりかえし語られなければならないのです。
キリスト教の信仰は、イエス・キリストの十字架の出来事の上に立っていると言って言い過ぎではないのです。
キリスト教の信仰とは、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事を抜きにして考えられないのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
この日本ではクリスチャンといえば、全人口の1パーセントにも満たないごくごく少数派です。
なぜかと言えば、イエス・キリストの十字架の出来事が広く伝えられていないとしか考えられないのです。
クリスマスのメッセージが正しく伝えられているのかどうか疑問に思うときさえあります。
イエス・キリストは、生きていつも私たちと共におられる・・・・、
この驚くべき事柄さえ伝わってはいないのではないかと・・・。
イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、
私たち人間が救い主を必要としていることをあらわしているのです。
私たちは救われなければならないのです。
何から・・・神の裁きから救われなければならないのです。
キリスト教の教会のメッセージで、よく言われる、
罪の赦し(つみのゆるし)とか、神との和解とか、
救いとか・・・・、
では、何の罪からの赦しなのでしょうか。
なぜ、神との和解が必要なのでしょうか。
何から救われなければならないのでしょうか。
この疑問にこそ、イエス・キリストの十字架の出来事は答えているのです。
その出来事に耳を、意識をかたむけることこそ信仰の始まりなのです。
イエス・キリストの十字架の出来事の、
その内容と意味とを正確に、かつ具体的に理解せず、つかんでいない人の多さは・・・、
キリスト教への漠然とした共感を覚える人たちを作ってしまうのです。
何がどうあれ、キリスト教の教会で、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・・出来事について語られなければ始まりません。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章18節・新共同訳聖書)
この聖書の言葉が、その通りになるためにも、
キリスト教の教会でイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の内容と意味とが、
くりかえしくりかえし語られなければならないのです。
北白川 スー
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Wrote up: 20 May 2010.