耐え忍ぶことが信仰なのか


 人間の人生には、困難や苦しみは常におそってきます。

 経済苦や病気苦、人間関係の不和など・・・・。

 東日本大震災によって引き起こされた苦しみや悲しみもそうでしょう。

 キリスト教の教会には ”苦しみに苦しんでいる ”人たちがやってきます。

 キリスト教的に言えば、

 救われているのかどうか確信が持てないとでも言えばいいでしょうか。

 そこで、それは信仰の不足から来るものであって、

 イエス・キリストを自分の心にまねくことによって、

 イエス・キリストと人格的な関係を築くことによって、

 難しく言えば、自分の召命にかたく立ちなさい・・・・と。

 罪の世界に生きていた者が、

 神によって呼び出されて救われたのだから、

 神への信仰の上にかたく立ちなさい、

 そうすればすべてが解決します・・・と。

 あなたは恵みによって救われたのだから、

 その恵みによって、人間のうちに生み出す信仰によって生きなさい・・・と。

 つまり、苦しみなどに耐え忍ぶことが信仰なのだと・・・・。

 難しく言えば、クリスチャンに与えられる永遠の命は、

 イエスが再び来られるとき・来るべき世界・

 来世において与えられるものであって、

 今の世界・・地上の暮らしにおいては、

 来るべき神の裁きのとき、

 神によって救くわれるという恵みの地位にある・・・という、

 来世への希望によって生きていけるだけなのだ・・・・と。

 しかし、苦しみの中にあるだけでなんら現状は変わらない。

 信仰とは、自分の召命を確実にすることなのだと・・・・。

 聖書には、次のような言葉があります。

 「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」

 自分の今までの生き方や考え方などを、

 悔い改めて、信仰により神に信頼して歩むとき、

 必ず神の恵みが与えられる・・・と信じるなら。

 つまり、己に勝つ自制心とか忍耐力とかを求めているのです。

 苦しみに耐え忍ぶことだけではなく、

 救われているという確信が与えられるには、

 今までの、自らの生き方、考え方を改めて、

 180度の方向転換を、回心を求めているのです。

 今からの、いちじるしい向上をもたらす、

 冷静なセルフコントロールと、

 忍耐強いハードワークとを求めているのです。

 苦しみや悲しみなどに埋もれているのではなく、

 現状から抜け出せるという希望を持って、

 意欲を持って、熱心に行動することを求めているのです。

 しかし、未来への展望が語られないなら、

 意欲して行動することへの定義付けがないのなら。

 それは、ただ耐え忍ぶことだけしか残されていません。

 それでは何のための希望なのでしょうか。

 聖書物語が語るのは、

 人間は、神の背いたことにより、楽園を追放され、

 地上をさ迷い歩くことになったのです。

 人間は罪の状態に堕落してしまったのです。

 救いをもたらすすべての能力や意思を失ってしまったのです。

 しかし、神に召しだされるということは、

 罪の中から召しだされたということは、

 神は、私たちのかたくなな心を取り去り、

 私たちに柔軟な心を与え、新たな意思を持たせ、

 再び神の道へと導こうとされているのです。

 決して現状に耐え忍ぶことを求めておられるのではありません。

 福音は、すべての人に救いをもたらす神の力だからなのです。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 キリスト教の信仰とは、

 決して耐え忍ぶことではなく、

 聖書の言葉に・神の言葉に聞き従う、

 信仰生活の実践のうちから生み出されてくる方向性にあるのです。

 後ろ向きではなく、一歩踏み出すことです。


北白川 スー

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Wrote up on 27 May 2011.