必要を求めることが祈りなのか



 キリスト教の祈りのとき、

 私たちの日常の生活や、

 人間的な活動に必要な、さまざまなものを、

 神に祈り求めることが祈りであるかのように思われています。

 物質的な、具体的なものであったり、

 経済的なものや、健康にかかわることであったり・・・と。

 自分の名誉や立場などを守るための祈りかもしれません。

 何かの問題を抱えていて、

 自分の正当性を求める祈りかもしれません。

 必要を求めることが、

 それらを祈り求めることが、

 キリスト教の信仰だと思われています。

 必要に答えてくださるのが神だと・・・。

 ノンクリスチャンから見れば、

 それらは、ご利益信仰に見えてもしかたがないでしょう。

 聖書・バイブルでイエス・キリストは言われました・・。


 (7節)「求めなさい。そうすれば、与えられる。

 探しなさい。そうすれば、見つかる。

 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

 (9節)「 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。」

 (11節)「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、

 自分の子供には良い物を与えることを知っている。

 まして、あなたがたの天の父は、

 求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 (12節)「 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、

 あなたがたも人にしなさい。

 これこそ律法と預言者である。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・7章7・9・11・12節・新共同訳聖書)


 ”求めなさい。そうすれば、与えられる。 ”

 この聖書の言葉をよりどころに、

 神に祈り求めることが、

 キリスト教の祈りとして自然なものだと思われています。

 さて、次の聖書の言葉はどうでしょうか。


 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、

 御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)


 創造主なる神は、人間を神の形に似せて創造されました。

 人間を素晴らしものとして創造されたのですが、

 最初の人間が神に背いて罪を犯し・・・・。

 取って食べてはいけない、死ぬといけないから・・・と言われていた禁断の果実を取って食べたため、

 神の怒りにふれ、最初の人間は楽園から追放され、

 神の言葉通り、人間の生に死が入りました。

 最初の人間に続くすべての人間の生に死が入ってきたのです。

 かと言って、創造主なる神は、

 ご自身の作品である、

 被造物としての人間を見捨てられたわけではありませんでした。

 神は私たちにあわれみを示されたのです。

 私たちを神の怒りの裁きから救うために・・・・。

 神の作品である私たちに代えて、

 神のひとり子・イエス・キリストの上に神の怒りを下し、

 私たちを救おうと決断されたのです。

 まさしく、

 「あなたがたの天の父は、

 求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 という言葉通りに・・・・。


 「 ・・・・・自分にしてもらいたいことは、

 ほかの人にもそのようにしなさい。

 これが律法であり預言者です。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・7章12節・新改訳聖書)


 12節は「黄金律」として有名です。

 素晴らしいものとして創造された、

 ご自身の作品である人間が、罪に落ちたため、

 神ご自身が、その人間たちを救うため、

 神のひとり子イエスを人としてこの世界に生まれさせ、

 私たちに代えて、罪人として十字架につけ、

 神の怒りをイエスの上に下されたのです。

 創造主なる神に栄光を返すはずの、

 被造物である人間が罪に落ちたため、

 創造主なる神に栄光を返すことができなくなったのです。

 ですから、神ご自身が・・・・。


 「 キリストは、神の身分でありながら、

 神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

 かえって自分を無にして、僕の身分になり、

 人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、

 へりくだって、死に至るまで、

 それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 (新約聖書・フィリピ・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新共同訳聖書)


 神でなければ、

 神の怒りの裁きから私たちを救うことはできません。

 神ではなく、

 人でなければ死ぬことはできません。

 死して罪を贖うために、

 死んで私たちを救うためには、

 人であるとともに神でなければならないのです。

 それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 神との和解の出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

 私たちは、神の怒りの裁きから救われなければなりません。

 しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。

 私たちは、何かと必要を求めて祈りますが、

 神は、私たちを救うために天で祈ってくださっていることを忘れてはならない。

 昨日も、今も、明日も・・・・。

 まことの、キリスト教の祈りとは、

 必要を求めることではなく、

 ”いまだに救われていない魂”のために祈ることこそ、

 キリストの祈りではないでしょうか。


 「 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。

 しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 だから、あすのための心配は無用です。

 あすのことはあすが心配します。

 労苦はその日その日に、十分あります。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章31〜34節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 02 , 2012.