人には存在する意味がある
神の怒りと裁きには、
人間に存在の理由があることを明らかにしているのです。
もしも、人に、人には存在する理由があることを知らせないのなら・・・・。
この日本ではとくに、教会には、こわれやすく傷つきやすい人がやって来ます。
こわれやすく傷つきやすい人を傷つけないためにでしょうか、
その人の生き方・行き方にたいして肯定的な励ましの言葉を与えようとするのが一般的なのかもしれませんが。
そうではなく、誰にでも見えるようにその人の罪深さや罪性をあばいたなら・・・・・、
静かにしておこうと思っているものを、人目に触れるようにあらわにするなら。
すなわち、キリストの光の下に罪深さを明らかにしたとしたら。
言い換えれば、キリストと出会うことによって・・・・。
その人は、二度と立ち直れないのでしょうか。
そうだからといって、隠れているものを、いつまでも隠れたままにしておいていいのでしょぅか。
キリストの光の下に引き出さなければ、
その人の救いは、いつまでたってもやって来ることはないのです。
神の前では、すべては隠し通せるものではないのです。
神の光は、すべてを明らかに照らし出します。
神の裁きの日は、何ものも隠し通すことはできないのです。
すべてお見通しなのです。
しかし喜ぶべきかな、喜んで自らをキリストにゆだねようとするなら。
隠されたままのものは何もなくなるのです。
だから、神への恐れが信仰へと進ませるのです。
かりにも、” キリストの恵み ” を、とらえようとはせずに、
神の前に、自らを正しい者とする意志で、神の前に立とうとするなら、また企てるなら、
神の怒りはさらに増し加わるはずです。
そして、その裁きは、考えただけでも恐ろしくなるのではないでしょうか。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)
それがいつなのかは分かりませんが、やがて来る、
キリストの裁きの時、
だれでも、人生のあいだに経験した、
思いと言葉と行為について何をしたのか、
キリストによって正確に評価され、ジャッジされ、
それぞれ報いを受けなければならないのです。
私たち人間は目的をもって、
この世界を造られた創造主なる神によって造り出されたのです。
旧約聖書の創世記では、
人間は神に似せて造られたと語っています。
しかし、その神に背いてしまった人類・・・・・。
当然にして報いを受けなければならないのです。
しかし、自らの作品を愛する創造主なる神は、
そのあわれな人類を救うために、
ひとり子イエス・キリストを人としてこの世界に生まれさせ、
そのイエスを、すべての人の身代わりとして、
イエスの上に神の怒りを下すことによって、
私たちを救おうとされたのです。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)
私たち人間は、目的をもって造り出されたのです。
しかし、いまだに背き続けている人間・・・・・、
残されている時間は少ない・・・・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 11 September 2009.