それが何がなんだかさっぱり分からなくても
さまざまですが、人は何らかの理由で日曜日の教会の礼拝に通うようになります。
そして、日曜日の礼拝の説教でメッセージされる事柄として、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事が、
つまり神の啓示が語られたとき、
その出来事が、なぜ神の啓示なのかさえ、
それを、一度や二度聞いても、それが何がなんだかさっぱり分からなくても、
くりかえしその内容と意味とが語られるとき、
神は、ご自身の御霊によって、私たちが理解できるように助けてくださるのです。
「 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章26節・口語訳聖書)
イエス・キリストの十字架による死と、
葬りと、三日の後に死人のうちから復活したという出来事が、
何を意味しているのか、
いつもはっきりと理解できるわけではありません。
教会へ来て、初めて聞くものばかりだからです。
この日本においては、一般社会のニュース・ソースに、
含まれている内容のものではないからです。
ですから、解き明かす人がいて初めて聞こえるものとなるのが日本の現状なのです。
そうであっても、その内容は理解しがたいものばかりなのです。
なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのか・・・・。
神との和解だの・・・・、
罪だの、罪の赦し(ゆるし)だの・・・・・・、
神の怒りとか、神の裁きとか・・・・・・、
世の終わりとか・・・・・・・それは、いったい何なのか。
北白川 スー
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Wrote up: 13 October 2009.