クリスチャンの証し・・信仰告白
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よく耳にするクリスチャンの証しを聞けば、
ごく個人的な経験や疑問から始まって、
信仰へのトビラを開くことになったと言えるでしょう。
おおむね、キリストへの信仰を得た理由が語られる証しを聞けば、
ごく個人的な出来事から信仰への扉を開くのが一般的なのです。
しかし、個人的な疑問から発した事柄が、
キリスト教の信仰を支え、
またクリスチャンのよりどころとする、
教会の本来的な姿を明らかにしているとは限らないのです。
教会の本来的な姿とは、
聖書的な祈りと、罪の赦しによる解放をともなう癒し(いやし)をミニストリーする教会・・・・なのです。
そのクリスチャンの証しが、信仰告白が、
救いと罪の赦しへの確証であるところのイエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事に、
どれだけ近づいているのか・・・・・。
それこそが、そのクリスチャンの今後の信仰生活を、
決定付けるものになるのです。
クリスチャンの信仰生活とは、
常に、自分の行動の痕跡、何が行われたのかや精神のあり方を深く見つめることであり、
自分自身の感覚や思いや言葉や行動などを、
そのまま受け入れて良いのかどうかを念入りに見つめ調べること。
どのようにして信仰を持つに至ったかではなく、
どのようにして、イエス・キリストの十字架の出来事を知り、
そして受け入れたのか、
それによって、どのようにして、
罪の赦しと救いを得たのかということが肝心なことがらなのです。
イエス・キリストの十字架の出来事が抜け落ちた証しは、
クリスチャンの証しではありません。
聖書・バイブルは語っています。
「 わたしは父にお願いします。
そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。
世はその方を受け入れることができません。
世はその方を見もせず、知りもしないからです。
しかし、あなたがたはその方を知っています。
その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章16〜18節・新改訳聖書)
クリスチャンとしての信仰生活における証しとは、
聖霊が自分たちの生涯にどのようなことをしてくださっているのか(現在進行形で)互いに語りあうことです。
その聖霊の語りかけに耳を傾けることが出来るのは、
また可能なのは、私たちクリスチャンに与えられた神の力なのです。
「 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
またわたしが話しておいたことを、
ことごとく思い起させるであろう。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章26節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 21 April 2011.