何から救われなければならないのか


 救いというテーマが必ずしも聖書的な視点で解き明かされていない現実があるということに・・・・。

 キリスト教では ” 救い ” というテーマが大きな位置を占めるわけですが・・・・。

 日本での多くの場合、” そうではない ” と思わされるケースとして。

 ” 何からの救いなのか ” というテーマが信仰生活から抜け落ちているとでも言えばいいかもしれません。

 キリスト教の信仰を持ったものの ” 何から救われなければならないのか ” ・・・という命題に、最初から行き着いているわけではないのではないか・・・・という疑問なのです。

 信仰を持った最初から理解していたわけではない・・・・、

 理解しなければ信仰に入れないということはありません。

 救いというものの認識がなくても信仰は持てます。

 何らかの人生の荒波を経験する中で、

 自分の属していると思われるところではなく、

 その外に、または別に、

 いまだかつて聞いたことも経験したこともない、

 きわだって目新しい・・・・、

 何か真理のようなものを見出したとき・・・・・。

 それが何であるかは分からず・・・・に。

 そのすべてがキリストの教会に行くわけではないのですが、

 それが仏寺や神社や新宗教に属するものとは思わずに、

 背中を押されるとか、引きよせられるとでも言える状態で、

 キリストの教会に足を向けたとき、

 何か、そうさせるものがそこにあったわけで・・・、

 初めてそれがイエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事であることを知ることになるわけです・・・・。

 そこで初めて ” 救い ” というテーマに出会うことになるわけです。

 しかし、それが ” 神との和解 ” という意味であることに気づくには、

 まだまだ道のりは遠いのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・、

 すなわち、イエス・キリストがすべての人の罪をその身に負って、十字架にかかり死刑となることによって、

 その罪をあがなったという出来事において、

 私たちが、どのように罪から解放され、

 罪を赦されたかということ・・・・。

 つまり、この世界を造られ、私たち人間をも造られた創造主なる神の前に、

 正しい者として立つことができるという・・・・、

 この世界を造られた神によって、もともと素晴らしい存在として造られた人間が、

 神に背いたことにより楽園から追放され、

 罪深い存在に成り下がったということから、

 神からますます遠ざかっていった私たちが、

 神にとって、また私たち人間にとって、

 必要なものとして用意された、

 イエス・キリストの、生と死と復活において、

 再び創造主なる神の前に立つことができるという。


 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章9節・新共同訳聖書)


 救いとは、神との和解であること・・・・・。

 本来なら、神の怒りにふれ、裁かれ、永遠の苦しみへ落とされるところを、

 イエス・キリストの十字架の出来事を、

 すなわち、神との和解の出来事を信じる信仰によって、

 そして、死人のうちからの復活という出来事を信じる信仰によって、

 永遠に続く苦しみではなく、

 永遠の命を得させようとされる神の意志を知ること・・・・。

 決して現実的な困難からの脱出だけが救いではなく・・・・・、

 神の前で正しい者として生きていけることこそ・・・・、永遠に。

 神の怒りと裁きからの救いというものの意味と内容が、

 まことの救いであることを・・・・・・。


 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、

 世を裁くためではなく、

 御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 06 November 2009.