クリスチャンの増えない日本
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おとなりの韓国や中国、そして東南アジアやインド、
アフリカといった国々では、その数を急速に増やしています。
それに比べて、私たち日本の社会では、
いっこうにクリスチャンの数は増えません。
どうしてなのか、その原因は何なのか・・・。
それは不思議としか言いようがないのです。
日本の社会の支配的な宗教観が、
また日本の古来からの民俗がそれを拒んでいるのでしようか。
人の誕生から死にいたるまで、
日本では、それは多種多様な宗教行事で事が運んでいきます。
神道や仏教、古来からの民俗信仰や、
さらにキリスト教風といったものまで。
そのような多様多彩な宗教観の社会の中にあって、
多神教から一神教へ、
この世界を造られた創造主なる神を、
ただひとつの神として信じとるという、
キリスト教に改宗することは、
とても難しいことなのでしょう。
そのような現実の中で、
いっこうにその数が増えない日本の社会を、
クリスチャンの目を通してながめてみれば、
日本のキリスト教の教会が、
イエス・キリストの福音というものについて、
その事柄の内容と意味とを正確に理解し受け入れる用意を持ち合わせている人たちにたいして語ることを怠ってきた・・・としか考えられないのです。
神の大きな計画というものを、
この世界を創造された創造主なる神の、
被造物としての人間にたいする、
神との和解と、救済の計画という・・・。
神の究極の決断と態度の決定という・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事について。
神の大きな救済計画というものを。
聞く耳を持ちあわせ、理解し、
受け入れる用意のある人たちにたいして、
語ることを怠ってきたのではないかと。
語ることを怠った結果として、
キリスト教というものの根本について、
たいへんな誤解のもとにある日本になってしまったのではないかと。
まず何よりも、キリストの福音が語られなければ、
まず何よりも、神の大きな救済計画というものが明らかにされなければ、
それを理解し承認し受け入れることなどできないのですから。
「 ところで、信じたことのない方を、
どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、
どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、
どうして聞くことができよう。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章14節・新共同訳聖書)
キリスト教の信仰は、とてもプラス思考なものです。
イエスへの信仰を持つということは、
はっきりとした動機づけのあるものです。
言い方を変えれば、
どういう人がイエスへの信仰を持ち、
どういう人がイエスを拒むのか・・・。
しかし、それはイエス・キリストの十字架の出来事が、
解き明かされなければ、
その結果は明確にはなりません。
社会構造の中にある特定の人たちが教会につながるというものでもありません。
そのために教会が社会の中に存在していて、
その役割を担っているのでもありません。
また求められているのではありません。
イエス・キリストへの信仰というものは、
神の選びの計画の確かさというものであり、
私たちの問題ではなく、
召してくださる方によるのです。
この日本、クリスチャンの数か増えないのは、
イエス・キリストの十字架の出来事の本質が、
語られず、
明らかにされていないからということではないでしょうか。
北白川 スー
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Wrote up on April 18, 2012.