客観性を失ってしまった私たち


 同じシステムに長く居つづけると客観性を失ってしまうと言われている。

 周囲を海で囲まれた島国日本、

 広く多様な情報に耳をかたむけることができなくなっている私たち。

 自分のやり方や考え方さえ疑ってみることすらしなくなる。


 「イエスがまだナザレにおられたころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で宣教を始めて、言った。

 『 悔い改めよ。天国は間近に来ている。』

 この人こそ、主が預言者イザヤを通して、

 『 荒野に叫ぶ者の声がする。

 主の道を用意せよ。

 主の通られる道を真直ぐにせよ。』

 と語られたその人である。」

 ( 新約聖書・マタイによる福音書・3章1〜3節・現代訳聖書)


 聖書は、人々に悔い改めよと迫っている。

 その存在がきわめて高く絶対的な価値観にたいして、

 ひざをかがめて、悔い改めよと迫ってくる・・・・。


 「 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、

 私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。

 私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

 その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・3章11節・新改訳聖書)


 仮にも教会の価値観が、この世のものと同様のものなら、

 人の生き方にたいして、この世的な励ましの言葉しか与えることができない。

 また人もそれを期待することだろう。

 多くの人は自分の義を求めて教会にやって来る・・・・、

 教会なら、自分の期待する励ましの言葉を得ることができるだろうと考えて・・・・・。

 自分のやり方や考え方にたいして、

 間違ってはいないという言葉が欲しいからです。

 しかし聖書は、天の御国が近づいたから悔い改めよと迫っている。

 自分の姿を、

 自分の外にあって、自分の姿を冷静に観察することができない人は、

 何を悔い改めればいいのかさえ分からないのだから。

 近寄りがたくおごそかで、魂をゆさぶるような、

 いいかげんに扱ったり、隠したりごまかしたりすることのできない厳粛さを持つイエス・キリストの出来事の内容と意味とを、

 すなわち、福音に耳をかたむけることによって、

 私たち人間の本性的な姿が、

 ふだんは隠れていて見えない生まれつきの性質が見えてくるはずなのです。

 そうしてこそ悔い改めへの道が開けてくるのです。

 今までの自分の思いや言葉や行動がまちがっていたことに気づいたとき、

 それを直すことができるのです。

 そうしてこそ客観性を取り戻し、

 かつ、信仰への道も開けてくるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 27 April 2009.