信仰は試される


 「信仰は試される」と、イエス・キリストの十字架の死・・・との関係。

 キリスト教の信仰とは、いったいどういうものなのでしょうか・・・。

 日本の社会の中で、あまりにも明らかにされていない事柄なのかもしれません。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で語っています。


 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、

 わたしたちの主イエス・キリストによって

 神との間に平和を得ており・・・、

 このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、

 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章1〜2節・新共同訳聖書)


 ”キリストによって、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる”・・・、と語っているのです。(口語訳)

 イエス・キリストの十字架の死によって、

 私たちの身代わりとなって十字架に死んでくださったイエスによって、

 神にたいして平和を得ている・・・・と。

 代わりに死んでくださったイエス・キリストによって。

 創造主なる神と、被造物としての人間との関係において、

 その神と和解をなし、

 その結果において平和を得ていると語っているのです。

 正直言って、なんとも難しい・・・。

 神にたいする平安が、なぜ人間の平安になるのでしょうか。

 聖書・バイブルは物語ります。

 創造主なる神に背いた結果、

 罪の中を歩むことになった人間たち。

 あくまで神に背き反抗する存在に堕ちてしまった人間たち。

 その人間たちに代わって、

 神の怒りをその身に受けてくださったイエス・キリスト。

 私たち人間の悪しき性質は、

 イエス・キリストの十字架の死によって、

 砕かれ葬り去られたのです。

 イエス・キリストは、私たちに代わって、

 神の裁きを受けられたのです。

 これが ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事の内容なのです。

 そのイエス・キリストを信じる信仰とは、

 私たちの反抗的な心が、

 神に服従したことを意味しているのです。

 イエス・キリストを信じる信仰とは、

 イエス・キリストに聞き従うことを意味しています。

 信仰によって義とされるということは、

 信仰によって、神の前に正しい者とされるということは、

 神に反抗していた性質が沈黙させられたことを意味しているのです。

 言い換えれば、

 私たちの人間的に欲求は、すべてその正当性を失うことになったのです。

 正しく道理にかなっていると思っていた人間的な欲求は、すべて葬り去られたのです。

 そして、新たに神の創造の秩序に従った人生が始まるのです。


 「だれでもキリストのうちにあるなら、

 その人は新しく造られた者です。

 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)


 しかしながら、

 まだまだ、自分の必要を満たすことが信仰だと考えているクリスチャンは多くいます。

 多くの人は、人間の不安は、必要が満たされないところからやって来ると信じています。

 しかし聖書は。

 イエス・キリストの十字架の死によって、

 私たちの高ぶった願いはしずめられたと語っているのです。

 それによって平和・平安を得ることになったのだと・・・。

 なぜなら、

 イエス・キリストは、私たちのために、

 神の怒りに打たれて、

 十字架に死なれたのですから。

 本来なら、私たち人間が神の怒りを受けなければならないところを・・・。

 神にたいする平和を得るということは、

 神と和解し、神の支配を受け入れ、

 神への服従を意味しています。

 新たな神の創造の秩序の中で平安を得ることを意味しているのです。

 まったく180度の方向転換なのです。

 そう言われても、私たちは不安なのです。

 現状に不満なのです。

 聖書は、さらに指摘します。

 イエス・キリストの十字架の死という出来事を信じるということを、

 それによって平安を得られる・・・・ということを。

 ただ単に言葉だけではなく、

 形だけではなく、

 現実のものとなるために、

 神は、信仰ある者の生きざまを試みられます。

 私たちを試されるのです。


 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。

 なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

 忍耐は錬達を生み出し、

 錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章3〜4節・口語訳聖書)


 キリスト教の信仰は明確にご利益信仰を否定します。

 ただし、神は、私たちの必要は知っておられます。

 ですから、求めるのではなく、与えられているのです。

 その基準は神にあります。

 よく言われるのですが、

 本当に心が満たされるのは、

 物質的なものを手に入れることではなく、

 この世の欲望にとらわれるのではなく、

 たましいの喜びを知っている生活をすることだと。

 そう言われても・・・・・。

 ニュースは、心の貧しい世の中になったと日々伝えています。

 私たち人間は、偽りの豊かさを手放すことができないのです。

 現実は、まだまだ神にたいする平安を見出すことはない。


北白川 スー

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Wrote up on 20 February 2011.