神の視点からの希望



キリストの福音の中身や、
クリスチャンとしての信仰の中身は、
神の視点からの希望と言っていいものです・・・。
しかし・・・・、
私たちは、自分を取りまいている状況を見て、
不安に感じ、困難を覚え、また絶望します。

キリストの福音とは何でしょうか。
神の視点から見れば、
私たちを取り巻く状況は、
どのような状況であっても、
決して絶望的な状況など存在しないのです。
だから福音なのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)

しかし、私たちは、
目先のことに心が囚われます。
目先のことに心をうばわれ、
心の自由を失ってしまいます。
ものごとを論理的に見ることができないようになり、
客観的な全体像が見えなくなってしまうのです。
ありのままの自分の姿を見ることさえできなくなります。
大切なことまで見えなくなるのです。

キリスト教の信仰に立つとすれば、

「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・15章4節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルに書かれている神の言葉は、
私たちを導くためにあると。
生きている者のためにキリストの福音は存在しているのです。
キリスト教は死んだ者の宗教ではなく、
いままさに生きている者のために聖書・神の言葉は存在しているのです。

私たちは、さまざまな苦難や困難に出会います。
そして、私たちの視線は狭くなってしまいます。
出会ってしまった苦難の意味さえ見失ってしまいます。
自分の感覚によって知ることとなった現象だけにとらわれてしまうものです。
クリスチャンであっても苦難の意味を見失ってしまうものです。
それまでの信仰によって存在を支えていた大きなものを忘れてしまうものなのです。
神が私たちを完成へと導こうとしている神の意志まで見失ってしまうものです。

希望とは神の視点からの希望であることを。

聖書・バイブルの言葉は、
私たちに、論理性と客観性を与えます。
私たちの人生を支え土台となるものなのです。

希望とは、自分の知恵や力や努力によって作り上げられるものではありません。
聖書・バイブルの中には、
朽ちない希望が表されているのです。

「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。」

 (新約聖書・エペソの信徒への手紙・3章19節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 02, 2013.