 
何が幸せなのか、何が望みなのか
 
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私たちは、現実の世界に生きている以上、
 幸せになりたいと、
 だれでも、現実の暮らしに望みを置いているものです。
 
 経済的に富んでいるとは言わないまでも、
 家族の中に争いもなく、そろって健康であり、
 将来に不安をおぼえない程度に、不自由なく暮らせたなら・・・・。
 
 しかし、なかなかそうはうまく行かないのが現実なのです。
 たやすくは実現しないものなのです。
 
 うまく行かなくさせている原因は、
 多くの日本人は、
 自分の思う通りにならないのは、
 自分自身に原因があるとは考えないで、
 自分を取り巻く環境に問題が、原因があると考えているはずです。
 
 人間関係であったり、会社であったり、
 社会の構造であったり、社会のシステムであったりと。
 
 自分の選んだやり方が、受け入れられないこともあります。
 自分の選んだやり方では、よい結果を生み出さないこともあります。
 そのようなときは、自分で選んだ人生なのだから仕方がない、
 また別の方法でもさがせばいいということになります。
 自分の選んだ人生なんだから、かまわないでくれ・・・。
 
 多くの日本人は、人生というものは、
 当然のように、自分のものだと思っているはずです・・・。
 自分で選び、自分を信じて、自分で築き上げてきたものなのだと。
 自分を支える力は、自分の中にしか存在しないと思っています。
 運命や運気は変えることができるとも信じています。
 
 しかし、ときとして、自分の目的や目標に反して、
 自分を取り巻く環境によっ大きく左右されることがあると思っています。
 
 ですから、人間社会の中で、自分らしく生きていくにはどうすればいいのか、
 ごまかさずに真剣に考えるのです。
 
 それでも、決して、人生とは、すべてのものを覆いつくすような普遍的な価値観の下に存在し、
 抱かれ、守られ、そなえられ、生かされているとは考えていません。
 
 可能性は、あくまで自分にあると、自分の所有なのだと。
 あくまで自分を信じて、
 自分を活かすことによって得られると信じています。
 自分を支えるのは自分自身なのだと。
 
 キリスト教では、
 私たちの人生というものは、
 神が私たちひとりひとりにそなえ、
 与えてくださったものだと考えます。
 
 私たちは、ひとりの例外もなく神によって造られた存在なのです。
 
 ですから創造主なる神は、私たちが希望ある豊かな人生を送ることを望んでおられます。
 そのためにも、みずから導き手として、常に語りかけ、手を差し伸べてくださっているのです。
 
 問題は私たち自身にあります。
 人生で求めるもの、
 つまり財産や地位や名声や健康などを尺度にして、
 幸せとか豊かさというものを考えていることです。
 
 車であったり家であったり教育であったり保険であったり、
 仕事や家族や健康や、
 心のいやしであったり、人に認められることであったり、
 それが自分にとって必要なものであり、
 それが手にはいれば幸せになれると信じている姿そのものなのです。
 
 創造主なる神は、私たちを素晴らしいものとして造られました。
 
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
 見よ、それは極めて良かった。
 夕べがあり、朝があった。第六の日である。」
 (旧約聖書・創世記・1章31節・新共同訳聖書)
 
 つまり、神によって与えられた資質や才能や能力などを最大限に用いることこそ、
 神がわたしたちに望んでおられることなのです。
 
 しかし私たちは、それが自分には備わっていないと思い込んでいます。
 それこそが欠けていたり、不足していたりするから、必要なのだと、
 手に入れることによって状況は開かれるものだと信じこんでいるのです。
 それを手にすれば、必ずや好転すると。
 
 神が私たちに語ろうとされていることは、
 それが手に入れば幸せになれるのではなく、
 本当に大切なものは何ひとつとして失ってはおらず、
 すべてが備わっているということなのです。
 
 ですから、創造主なる神によって造られた者として、
 父なる神に信頼し、神から与えられた持てる力を用いるときこそ、
 祝福された栄光ある人生を送ることができるのです。
 
 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、
 岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
 それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、
 砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、
 倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・7章24〜27節・新改訳聖書)
 
 キリストに聞き従う信仰というものは、人生にモチベーション与えてくれるものです。
 自分の望みのための神頼みなのか、
 それとも、主イエス・キリストの意図にかなった祝福と栄光を手にするのか。
 そのどちらが真実なのか・・・。
 考えてみましょう・・・。
 北白川 スー
 
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Wrote up on October 20, 2015.