救いとは何ですか



クリスチャンの会話で、
「私は救われました。」という言い方をよく耳にします。
では、いったい何から救われたのでしょうか。

キリスト教が言うところの ”救い ”とは、どのようなことなのでしょうか。

病気からでしょうか。
苦難からでしょうか。
金銭の苦労からでしょうか。
複雑で重々しい人間関係からでしょうか。
戦争や争いごとからでしょうか。
自分が生きて行くうえでの、
人には言えない、さまざまな苦しみからでしょうか。

聖書・バイブルが語っている救いとは。
救われていない人とは、
神の有罪判決と、神の怒りの下で生きていること意味しています。
救われた人とは、
神の無罪判決と、神の赦しの下で生きているということなのです。

有罪なら、地獄へ落とされ、
無罪なら、永遠の命が約束されています。

「 なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルが語る救いとは、
この神の裁きからの救いを指し示しているのです。
必ずやってくる世界の終わりのとき、
”最後の審判 ”からの救いなのです。

生きている人も、かつて生きていた人も等しく、
神の裁きを受けることになっています。
だからと言って、
生きている間に、
良い行いを積み重ねることによって無罪となるのでしょうか。
いいえ、
私たちは本性的に罪深い存在なのです。
生れたときから罪深い性質を負っているのです。
良い行いと思っていても、
神の目から見れば良い行いではない場合もあるかもしれません。

私たちの行為や行動、行ないを言ってるのではなく、
生まれながらに負っている、
神への背きの罪について問題にしているのです。

なにかと問題の多い人間社会です。
ひどい目にあっても何度もくり返す、こりない人間たちです。
その原因は、
生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いとなり、言葉となり、行為となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているからなのです。

だから、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
すなわち、神との和解の出来事が意味を持ってくるのです。
この出来事こそ、神の啓示の出来事なのです。

神と和解しなければ地獄へと落とされることになるのです。

神の啓示を認め受け入れることこそ、
救い主キリスト・イエスこそ、必ずやって来る、
神の怒りの裁きから救ってくださるのです。

救いに必要な力は私たちにはありません。
救いは神から来るものであって、
キリストだけが救いを成しおえることができるのです。

「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、
わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」

(新約聖書・テトスへの手紙・3章5〜7節・新共同訳聖書)

神に背き、罪深い私たちです。
神の怒りの裁きから救われなければならないのは私たちです。
しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。


北白川 スー

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Wrote up on October 04, 2013.